2009-05-01から1ヶ月間の記事一覧

ウィノナ・ライダー

そういえばエイリアン4から、もう十年以上経ったのか。妙な感慨にひたってしまった。

『スター・トレック』

アメリカ人の自画像としてとても面白い。ついつい精神分析の興味をそそられる。 カークの父が敵艦に特攻したり、老スポックが母星を破壊される場に立ち会わさせられたり、監督は9.11の経験を反復している。あの屈辱をどうにかして合理化し、自分の人生に納得…

身内と他人との見分け方

だから、身内の不祥事のせいで取材陣に囲まれたら、失語症におちいるか、鉄面皮に建前をまくしたてるのが「ふつうの身内」で、明快に背景説明をして適切なトーンで謝罪の言葉をのべる人がいたら、それはもうその人の心が「身内」から離れてしまっているのだ…

と学会は、身内がトンデモだったことを認めるべきか

http://www.cml-office.org/archive/?logid=376 トンデモの質が違うから、と学会は唐沢問題を無視してもいいと思う。と学会には詳しくないのだが、その著述家の一部作品に限らず、そのありようがおかしいという報告を、と学会がいままでしたことがないのなら…

つっこみの作法

そんなものはないと思うが、とはいえ、である。 なにかのミスや無知を合理化して、妄説をひねる者がいたら、かれを笑ってもいいだろう。しかし、ただのミスを得たりとばかりにはやしたてるのは、要するに「唐沢」のレベルに自分を落としているわけだ。なにを…

アマゾンの『1Q84』

中古コーナーの定価より高い本がコレクター商品のコーナーへ移動されていた。まずいと思ったんだろうな。 (追記)値段をすこしさげて中古コーナーに戻したり、微変がつづいている。

『天使と悪魔』

ハンス・ジマーの音楽がところどころダークナイトを引きずっている。エンドクレジットでは、町山さんが指摘していたサスペリア調が全開になっていた。

『ラスト・ブラッド』

前半横田基地らしき在日米軍基地を舞台にしていて、そこはちょっと面白かった。マトリックスとラストサムライを足したような世界。崖に落ちたトラックが途中でつかえてそこで格闘という流れは、キングコングみたい。

『古希の雑考』

唯幻論で読み解く政治・社会・性 古希の雑考 (文春文庫)作者: 岸田秀出版社/メーカー: 文藝春秋発売日: 2007/01/10メディア: 文庫 クリック: 3回この商品を含むブログ (8件) を見る日本の裁判で、殺人や過失致死などの加害者の扱いが甘く、被害者につらいの…

『唯幻論物語』

唯幻論物語 (文春新書)作者: 岸田秀出版社/メーカー: 文藝春秋発売日: 2005/08/19メディア: 新書 クリック: 14回この商品を含むブログ (26件) を見る気になって読み返した。要するに、子供にとっては、親の自己欺瞞さえも内面化するのは、トゥーマッチなので…

私小説

大江と聞いて「死者の奢り」や『万延元年のフットボール』を連想すれば、その人は大江を私小説作家だとはおもわないだろうが、『静かな生活』や『取り替え子』を思い出せば、まあ私小説「的な」作家だとは思う。案外私小説の対象は拡大しうるのだという小谷…

私小説、あの感じ

私小説に、明治末年前後に成立したああいう感じの小説というイメージが形成されたから、大正モダニズムやプロレタリア文学、新興芸術派、日本浪漫派がでてこれたという側面があるのじゃないかしら。それぞれの「流派」にとっての先行形式である「私小説」へ…

ジョーカーと「父殺し」

ティム・バートン版『バットマン』でジャック・ニコルソン演じるジョーカーは、ギャングのボスの策略で命を狙われた結果、顔に障碍をおわされ、その復讐としてボスを殺害し、組織を乗っ取る。ボスの手下であった男は、明瞭に「父殺し」の手続きをふんで、ジ…

父の代理物としての世界

「父殺し」を明瞭にしたくない心性というものが、戦後綿々と続いてきたということだろう。父から遺産を受け取るということにたいする内心の葛藤というものから、戦後の人間は逃げすぎたと思うのである。この時期に『卒業』を見たのはいい勉強になった。マイ…

『ぐるりのこと。』(性的半幻論 その九)

父親との関係がうまくいかなかったことが心のしこりとなって、思うような人生をおくれないでいるリリー・フランキー演じる夫が、やはり同じように両親との関係に葛藤をかかえているいる木村多江演じる妻が精神に失調をきたす事態に遭遇する。つねに半端な仕…

『卒業』をめぐる言説

映画自体は、けっこうマンガっぽいのに、なんで日本の映画マスコミは「名作」あつかいしてたんだろうかと思うのである。『卒業』は傑作ではあっても名作ではないだろう、誰でも感心するという作品ではない。日本人は、この作品が描く親の過保護、親の過干渉…

性的半幻論 その八

音声を封じられて、視覚偏重の社会になってから、また幻想も変質したのではないか。私たちの身体は、視覚偏重に耐えられないのに、無理にそれに合わせようとしている。

『卒業』

なんかイメージしてたのと全然違う…。両親の過保護によって、自我の成長を疎外された青年が突然与えられたセックスに有頂天になって、成長することを忘れてしまう話。後半に、青年の不倫相手の夫が青年をなじるシーンがあるけれども、そこで青年が情事のこと…

その父の子であることを受け入れて父による子殺しも受け入れる

どうも私にとっては『その土曜日、7時58分』のほうが『グラン・トリノ』よりも重要であるようだ。イーストウッドは、親子関係を描く意欲をみせびらかすことで、親子関係から逃避したい本心を隠しているだけなのではないか。そして、だからこそ、観客は安…

人形を大事にするところから、人間を大事にすることがはじまる

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040402 ふと思い出して町山さんのブログを確認したのだが、バトーのありようについて町山さんの見方はちょっと違うように思うのだ。バトーにもいちおう父はいるのだ、荒巻という。仲間もいる、トグサという。子供もいる、…

中央大の殺人

容疑者は殺人を認めて、動機については話さず、卒業後転職を繰り返していた…。なんだか無理心中みたい。被害者は恨まれていることを気づきもせずに殺されたのではないか。被害者は容疑者の理想であって、被害者のようになれないことを悟った容疑者は、被害者…

性的半幻論 その七

野菜だって丹精こらしてそだてたら愛着がわくのに、それを市場へ出さなければならない。野菜どころか畜獣ならその悲しさはひとしおであろう。私が農村の悲哀ということで連想するのは、歌の「ドナドナ」である。ヒトと自然とが協同して作物を成し、それを都…

性的半幻論 その六

表現ではない人(身体)を、あえて表現であると錯覚することで性幻想は成り立ったというのが、いまの私の考えである。本能が壊れて、模造品の「本能」を構築するさいに登場したのが幻想であるというのが岸田説だが、本能が壊れたから代理をたてるなどという…

「だれがなにを言ってもいい」

自我幻想と性幻想、性幻想を「対象が外在する幻想」と読み替えれば、『唐沢俊一検証blog』の人々は、手順をふめば唐沢の自我幻想をも笑いものにできると思っている様子らしいので、私はあやうく感じるわけだ。美智子妃についての記事が出てから、一日たつの…

性的半幻論 その五

『その土曜日、7時58分』の冒頭でフィリップ・シーモア・ホフマンが後背位で妻をファックしているのを、シドニー・ルメットはわりと長く撮っていて、私はこれを夫と妻がうまくいっていないことの表現なのだろうなあと思いながら眺めていた。正常位では夫…

イーストウッドは陰湿である

イーストウッドを好きだったり褒めたりするのはかまわないのだが、イーストウッド作品が陰湿なことに言及せずにやたら褒める人は、はっきりいって気持ちが悪い。かつて小谷野さんは、蓮實重彦ほかの映画の好みを「暴力」であると看做したが、微妙に違うと思…

性的半幻論 その四

一神教の神には身体がない。身体がないのに思考が(僧の口なり、教会の書物なりをとおして)信徒に示され、思考の結果が天罰などとしてあらわれる。ようするに父の身体が隠れるわけである。父の居所が不明だから、父殺しもままならないわけだ。私が小学校に…

性的半幻論 その三

あらゆる文化は表現であって、表現として出されたものは限定的であるから、たとえば宗教という文化は通常は偶像をつくる。後発の宗教が、偶像を否定したり一神教になるのは、先行する宗教を否定したいという気持ちのあらわれだろう。岸田先生は、一神教の神…

『その土曜日、7時58分』

監督は八十四歳でこの作品を撮ったらしい。すごい。『グラン・トリノ』ばかりではなく、こっちも褒めなきゃダメ。映像がきたないなとおもっていたら、やはりビデオ収録だった。ハリウッドがどんどん傾斜していく。しかし内容はちゃんとある。音楽が同じ人な…

性的半幻論

自我というのは、いかんともしがたい現実をいいわけして否認するために存在している。だから、あらゆる「談話」はウソであり、幻想なのだ、ともいいうるわけだ。幻想には「体」がある。「形式」ともいえる。表現されたものは「限定」される。ヒトの個体はい…