2011-02-01から1ヶ月間の記事一覧

自己批評と自己露出

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110227 たしかに「自己批評があるかないか」というのは、表現を語る際の符丁というか約束事みたいになってしまっていて、かったるいというかうざったいというか、ものの本質がわかりもしない馬×がそれでもなにか話した…

顕示と違背、あるいは、一般人は絵を描かなくなる

著作権のことで長谷川町子のことを話していて、ちょっと思い浮かんだことがあって、それはなんであんなにサザエさんはいまだに見られているのに(アニメで)、みんなイラストを描かなくなってしまったのだろうかということ。もちろん長谷川の財団の威光が、…

経済的には商業出版との図書館の関係は映像におけるユーチューブのようなものであるか

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110226 自治体がベストセラー本を何冊も買うのはおかしいとは思う。これには国が法律をつくって自治体に購入冊数制限を課した方がいいとは思う。とはいえ、A>Cかどうかは一概にいえないんじゃないでしょうか。本の分野…

需要と供給にかんする随想

イラクに攻め込まれるまえのクウェートは、石油で太った成金国家で、国民の大多数から選挙権が奪われているけれども、かれらの負担する医療費はタダ、みたいな話を20年前の湾岸危機のときに聞いたような気がする。確認したわけではないからそれがホントだっ…

『交響舞曲』(ヒンデミット)

戦間期の作曲家で好きなのは、プロコフィエフとバルトークとヒンデミットで、ヒンデミットのこの曲は、高校生の頃「N響アワー」で、たしかジャン・フルネが指揮したのを聴いて卒倒するほど興奮したのである。高校のころのエアチェックのカセットを整理してい…

小室哲哉『罪と音楽』

詐欺事件の詳細については関心がなかったのでいままで知らなかったが、この本を読んでも、富裕層のトラブルそのものといった感じでよくわからない。わたしのような貧乏人には理解できない金持ち特有の鷹揚さといったものを感じた。ようするに金額の多寡で社…

人類には基本的に…

鼻の大きな男は…という俗説があるけれども、私は、口の大きな男は案外そうではないかと考えているのだ。生殖器官は要するに内臓なのだから、腹部のどこにあったってべつに構わないのだが、消化管を作る際に、どうせならいっしょに作っちまおうと「自然」は「…

鳥類には基本的にペニスがないが鴨は長大なペニスを具えている

浅い検索で動画にアクセスできるのでぜひご鑑賞を。生物進化がいきあたりばったりの偶然のつみかさねにすぎないことをしめす一例だろう。

私の文学観

他人の目を気にしつつ行われる客観性からの逸脱、というのがそれである。どの地域の文学も、だいたい詩や演劇からはじまっているのが面白い。詩は形式によって、演劇は観客によって客観性を担保したのであろう。ルネサンスというのは、古代ないしは中世にお…

狩猟で暮らしたわれらの先祖

http://www.youtube.com/watch?v=fkN6C1ur1t8ああ、野蛮だなあ。野蛮で、そして力強い。農耕することへの喜びというのは、こういう大変さから免除された人類の喜びなのだ。西洋人が野生動物を殺すことと家畜を殺すことを強く区別するのは、狩猟時代の記憶が…

わたしのアイドルたちとポスト・モダニズム

たとえば、Winkである。このアイドルを「愛嬌に乏しい二流のアイドル」と判断して、それ以上に関心をはらわないという受け手の在り方が「モダニズム」で、「裏側の仕掛人が理屈言いの視聴者があれこれ解釈することができるようにチューニングした新しい型の…

エレクトロニクス革命

ついデジタル革命のことばかり気になってしまう私だが、デジタル革命のベースにはエレクトロニクス革命がある。文字は電子メールよりもファクスよりも、さらにさらに前、電信によって「飛ばす」ことが出来ていた。世間知らずを告白すると、私はいままでに一…

思想、四千年も一瞬に

ブックオフで佐藤優の『獄中記』をぱらぱら眺めた。佐藤は頑張れば本を一日1500ページ読むことが出来ると述べていて、途方もない気がした。しかし、べつのところで佐藤が思想における毛沢東とスターリンの違いや、どちらが好みなのかについて述べるくだりを…

しんだはずだよおとみさん

というわけで『セブン』を久々に見たのだが、レストランでトレイシー・ミルズとウィリアム・サマセットが会話するシーンを見て、『ゾディアック』の同じようなレストランでロバート・グレイスミスとデヴィッド・トースキーが会話するシーンを思い出した。作…

鬱のいろいろ

私は自尊心も薄いが他人を尊敬することにも関心がないので、平然といろいろ言う。鬱についての言説をあれこれ見ているのだが、これ、どうだろう、「人は(日本人は)自尊心はほどほどにして、他者への尊敬心は保たねばならない」という前提を手放さない人が…

「対象というものは、幻想である」

昨日、絵や視覚について書きながら言いたかったのは、ようするにこれなのである。対象というものは自己と独立して存在するものではない、と。しかし対象がそれについて語る主体と独立で存在していることにしないと、社会の平安が保たれないから、対象が物と…

視覚と位置情報

写真というものが真にショッキングなのは、それが視覚とは要するに位置情報にすぎないのだということを表沙汰にしてしまったところにあるのだろう。新聞写真だけがそうなのではなく、写真そのものが、点(ドット)の集積で、その点の位置関係を脳が処理する…

風景画を捨てた日本人

はじめ「写実を捨てた日本人」と書いて、あわてて書き直した。べつに写実を捨てたわけではなくて、透視図法が一般化しないまま近世を過ごしただけなのである。「遠くの方を描いた絵」は、かつての日本人によるそれは絵よりも図に近いものになった。文章とい…

簡略化の技術としての「絵心」

ということをここしばらく考えている。自分の仕事について自分が理解しているのは当然だが、他人はそれを理解しているわけではない。だから説明ということをするわけだが、その余裕がないという状況もありうる。そこで問われるのが、「絵心」の有無なのでは…

『ハンニバル』

新潮文庫上巻222ページの冒頭は、原著ではこうなっている。「NOW THAT ceaseless exposure has calloused us to the lewd and the vulgar, it is instructive to see what still seems wicked to us. What still slaps the clammy flab of our submissive co…

歌って飛ぶ象

『ダンボ』のことである。スピルバーグのドタバタコメディ映画『1941』で『ダンボ』を見て泣くのはスティルウェル中将という人物で、実在の人物から名前とエピソードを借りているらしい。『ダンボ』は1941年の新作映画だから、『1941』劇中のスティルウェル…

歌といえば…

小説を読むのに、ユーチューブはもはや手放せない存在といっていいだろう(物体ではないウェブサイトを「手放せない」というのも変な話だが)。『東京少年』を読むのにも当然、使用した。「ラバウル小唄」と「お山の杉の子」である。

歌うクジラたち

『歌うクジラ』というロバート・シーゲルの自然小説があるらしく、村上龍の新作は題名をそこから拝借したらしい。しかしシーゲル著『歌うクジラ』は原題を「ホエールソング」といい、『クジラの歌』という訳題で出版されたこともある。『歌うクジラ』と改題…

高見浩訳トマス・ハリス著『ハンニバル』

面白いけど、なんだこれ。アメリカのエンタメ小説の翻訳で「のである」という述語を見ると、まるで時代小説を読まされたみたいで調子が狂う。翻訳者の好みなのかもしれないが、著者もずいぶん読者の方に寄ってきているようで、なんだか「いつもと違う」。菊…

小林信彦のフロイトいらず

『東京少年』の文庫版をのぞいたら巻末解説はまたもや坪内祐三で、坪内は小林著の解説になると小林への遠慮かなにかわからないがいつも文章の歯切れが悪いので、べつの人の感想文の方がいいのではないかと思うのだ。もっと饒舌にいろいろ書いてくれないかと…

松本清張原作脚本『疑惑』

森田健作のパートは、これ、森田の見間違えだったと受け取っておけばいいのだろうか。丹波哲郎が出てきてすぐに退場するから、後半になにか出番があるかなと思ったらそれっきり。ちょっと拍子抜けである。いいたいことが自分のなかにちゃんとあって、しかし…

もっということ、あるだろ

『流されて』だと、ジャンカルロ・ジャンニーニになっちゃうから『流される』にするしかなかった、とか。

長音表記

まえにここ(http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080901/1220256430)をみかけて気になっていたのだが、柳瀬尚紀が長音表記を省略する風潮に憂慮した発言について、誰かネットで引用していないかと浅く検索したのだが、望むものにはひっかからず。横着せずに…

個人的には『冷たい熱帯魚』よりも衝撃的である…

『怪物がめざめる夜』を読んだばかりなので、小説中の神保登が下ねたに走る芸人の苦衷をラジオで吐露したシーンがつい思い浮かんでしまうのだが…。 「ロボコップ演芸」というのも、文字面では前から知っていたのだが今回はじめて映像で見た。審査員席で蓮舫…

『日本橋バビロン』

なんでまた、日本の近世以来のいち商業区画が、古代に栄えて滅んだ国家の首都になぞらえられるのか、私のようなには不審なのだが、ようするに著者の政治ぎらい、あるいは世間ぎらいを表明しているのだと受け取っておけばいい。「こここそ私の国家であり首都…