『愛のゆくえ(仮)』

もともと、平田某の事件が心の片隅に引っかかっていたプロデューサーが、ある芝居を観て、それが偶然にも某のニュースを素材にしていたことを見抜いて、やはりあの自首の事件を形にとどめたい、映画化したい、と思った、というのが映画の企画のはじまりだったらしい。

Pは、某自身には興味が薄く、彼に随伴した女の方への関心が深かったのだが、話を引き受けた監督は、自首した某に、カケラくらいの規模であっても己の日本論を託したかったらしく、現行のように映画のフォームが定まった。

事件と事件の当事者の男と女、それぞれへの力点の配分が1:4.5:4.5くらいになっていて、要するに事件のことを知らなくても見られる、というか、事件に関心がなかった(いわゆる世間並みの主張を持つほどでもなかった、という意味)人間にこそ映画が描いている人間存在の不思議さ、つらさを味わうことができる。

夫婦関係は極小の社会関係であるから、ルールの検証と更新がわりあい容易に可能であって、この映画は、小ルールの検証と更新をいかにも演劇風に描くメイン部を持ち、終幕に夫婦関係の解消という大ルールの更新をもってきている。劇中では検証のことを「こたえあわせ」と呼んでいる。

映画は妻の述懐からはじまり、すみやかに記憶を主題化する。一定より以前の過去がうまく思い出せない。結婚(逃亡犯なので内縁関係だが)の詳細が自分の中から消えかかっているからこそ、いまの自分の結婚しているという状況が、より宿命的なような事実として、女にのしかかってくる。しかも、彼らにとって、かれらが夫婦であると他人に知られないことが、夫婦関係を継続させる要件になっているのだ。究極の内縁関係である。

ふと思いついて「変転と舞台裏」とタイトルを書いてみたが、これもまた、舞台裏の話なのである。彼らの1DKの小さな世界は外の人間が気楽に訪問できない別世界だった。見られたら、破綻してしまう別世界を、彼らは判断して終了させた。その終幕を観客の私たちは覗いているわけだ。

この映画の舞台裏についても、けっこう関係者自ら語っているのだが、どうも伝わっていないようなので私もまた、「舞台裏」を覗いたものとして、以上のことを記しておくのである。宣伝につかっておいてあれだが、あの教団に関しては、実はこの映画はあんまり言及していないのですよ、と。

あと、個人的には「(仮)」というのは「(笑)」のような80年代的表象だと思うのだが、製作者にはとくにそのような意識はなく用いられているらしい。こういうところにも、ニュアンスの変転は進行しているのである。

ポレポレ東中野で上映中