漫筆

なぜインターネットに書き込みたがるのかといえば、それは自分でもやってみたいから、それは創造性か模倣性かと問えばたぶん後者であろう、ではネットの文章公開には独創性とか報道性とかの性格はないのか、そういうことはいえないだろうというのは、それはまがりなりにも文章だからだ、他人が読んでしまえば、文章は報道性や独自性を達成しているかを測る視線にさらされる、つまりは作者と読者は各自がそれとして行為するにおいて前提とする態度がちがうのであり、そのギャップは焦りの色を帯びた声で商業性やら事大主義やら非難されたりもするが、要は他人と自分とのスピード感が合わないということだ、書き込んでどうするのかの答えは書き込む側にはなくて、調子のいい未来予想図は書き手の脳裡をかすめはしているものの、圧倒的に書き手に迫るのは書き手自身の直接的近過去であり、書き込む・文章をつづるという行為の内実は経験の非文脈的アウトプットである、われわれは国家や家族やイデオロギーのためにモニターのまえにプリングスを抱えて陣取るのではない、すでにそこにモニターが存在しているという事実とうつろに輝くディスプレイという現実とに圧倒されてふらふらと我のようにキーボードへと手を伸ばすのである、われらの宙吊りの現在を救うのはブロードバンドやオリンピック・平面液晶画面は大画面のほうが美しいというしゃれた話題を提供する技術・情報それらでは断じてない、決断とイデオロギーこそがバーチャル空間の広大な空虚にみずからの雄叫びをこだますことができるのだ。