『Playback』

こどものころ、テレビの西部劇のやられやくが主人公に撃たれて、倒れる、乾燥した荒野の大地にばったり倒れる様子に、深い印象を受けて、友達すうにんといっしょになって、西部劇ごっこに夢中になって、なんども何度も、死ぬ練習に興じていたことを、この映画を観ていて、ふと思い出した。何度も、何度も、倒れる、ばったりと。

いじめのレパートリーに、自殺の練習を被害者に強いるというのが、あるらしいが、自分の死、というものは自分では見ることができない。できないために、自分で死んでみたり、他人を死なせてみたりするのだろう。

映画もまた死という主題に魅了されてきた歴史を抱えていて、ああでもない、こうでもない、と、なんとか死を視覚化しようと試みてきたが、ここに、また、いっぷうかわった死の提示の仕方を考え付いた映画が登場したわけである。三宅唱の『Playback』である。

男がマンションの一室で目覚める。時計をとって時間を確認しようとするが、ふと気が変わり、いまが何時なのかなど、どうでもよくなり、天井をながめて、ぐっと伸びをする。なぜか自分が子供に戻っていて、住宅地のさびしいあたりでのたれ死んでいる男を見つけるという、さきほどの夢を反芻する。

『Playback』。男と偶然同じ姓を持つもうひとりの男が久しぶりに男の前に姿を現す。彼は、男の転機になぜかいつも登場して男になにかを語りかける。原因と結果について。結婚が破綻する予感について。心の惑いが顔に表れることについて。そして、「おれたち」の時間が、もうそれほど残されてはいないことについて。

同じ姓をもつあの男が現れたのだ。いままた自分は転機にさしかかったのだろう。そう思いながら健康診断を終えた男は、病院からわたされた診断結果をろくに見もせず丸めゴミ箱に捨ててしまう。その紙を拾って、男に渡す、さらにもう一人の男。よく思い出せないが、懐かしい思い出の場所からやってきたことだけはわかる、そういう男。

思い出の男は、男を、結婚式にいざなう。誰の結婚式なのだろう。高校のころの、楽しい、楽しいだけだったかのように記憶するが、実際にはそんなことはなかった、あの自分の高校時代の故郷で、そのころの友人のひとりが、いま結婚式をあげるのだ。

なぜか自分のことより、友人たちや、気になっていた異性のエピソードばかりを、思い出す。自分がいなかったはずの場所でおきたことについて、なぜか、自分が語っている。男はふと気が付く。男の目の前の友人も、自身には関係のない男の仕事について詮索する。男は芸能の世界で暮らしているから、だから、友人の知りたがりは、世間的にそれほどおかしなことでは、ない。…。

夢の世界の人物たちが、主人公よりも主体性をもって振る舞い、かえって主人公が彼らによって誘われ、勇気づけられる。夢の人物たちが、主人公を送り出した後、ビニールシートを片づけるシーンがある。現実と夢の映画ではなく、夢から現実を眺める映画。

転機に現れる、男と同じ姓を持つ男が、いままた男を見守っている。同じ姓の男が、なにかを確認し、部屋の外に去っていく。入れ違いに、別の男が部屋に入ってくる。男のいまの人生を導く「監督」が。男は言う「再開」と。『Playback』。