煤煙読了

とりあえず読み通した。要吉と朋子の痴態と情死行。個人主義哲学の恍惚と敗北。愛の名の下に人を殺せるか。

さすがにトルストイダヌンツィオまで追いかける余裕は今はない。とはいえ、漱石小説の女性造形の一部はこの「煤煙」に拠っていることは確認できた。「行人」の直子が台風でひとおもいに死んでみせると言ってのけたのも、「煤煙」の朋子が火葬場を見て阿蘇山の自殺者の話を思い出すのに影響されているといってよかろう

自分(男)よりも口の回る賢そうな女に幻惑されるという設定は、とてもよくわかる。朋子は、最近見た「紀子の食卓」の上野駅54に通ずるところがあると思う。演劇的な人工性が狂信的な聖性につきぬけてしまったような感じ。
あまり説明が過ぎていいわけ臭いところもあるけれど、かなりよく書き込まれた小説で、その正直さに打たれた。わたしにとって草平は正直の作家であって、とても性に合う。露悪でなく正直なのがいい。絢爛たる物語や、流麗な筆致というものに、わたしは興味がない。

兎も角もして「煤煙」は書き終った。それと共に過去の半生を葬った。人間は過去の経験から成立つ、其過去を私は失った。最早自分の手には何物も残さない。

「煤煙」発表二年後の回想文より。この啖呵は凄い。自負の裏返しというか。

(2009年追記。何をいっているんだかひたすら恥ずかしい。一部見せ消ちにした)