絞殺魔

現実の事件に取材した映画。連続殺人犯を追う捜査が二転三転する様子と、たまたま捕まった犯人が多重人格者で、その驚異の内面が描かれる。

プロデューサーは、今作のあとに「マイラ」を制作したりしているので、性的マイノリティーを擁護し、偏見をもつ大衆を啓蒙する使命を持っていたのではないか(エド・ウッドみたいに)。「絞殺魔」においても、事件に無関係なのに警察に疑われる同性愛の男性たちがでてくる。ひるがえって、容疑者として尋問される異性愛の男性は軽薄なナンパ師で、およそ観客が同情しえない性格に造形されている。

後半は、つかまった犯人が精神障害者で、精神障害者の人権上の立場から逮捕や発表はできないという法理が、捜査官と精神科医とのやりとりで解説されるにおよんで、この映画のコンセプトが明確になる。この映画は、変格的な難病ものなのだ。

前半は、捜査が有効に進展しないさまをリアリズムで描いていて、うまくいかないという話がもともと「現実的」なのに、現場を引きで撮って死体の一部を画面に写しこんだり、分割画面で野次馬の騒然とした感じを演出したり、生き残った被害者が混乱して面通しした犯人を見分けられなかったりするのが面白い。

トニー・カーチスの演技も典型的なアカデミー賞ねらいの病人演技であった。見終わって思うのは、やはりエクスプロイテートという言葉である。リベラルな題材を欲しがった製作者、風変わりな演出を追及したかった監督、病人演技をおもいのままに熱演したかった俳優、3者の思惑が幸福に、しかしちぐはぐなままに合致して、しかし、事実への謙虚さや、遺族への配慮がいちばんさきに忘れ去られたのである…。

↓参考までに
http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/worst/blood/boston.html

…余談だが、殺人に失敗した犯人が、追っ手をひきはなして車の流れにつっこんでいき、轢かれそうになりながら、よたよたと道の向こう側へ逃げようとするシーンで、つい「セブン」の似たシーンを思い出したのだが、監督のデビッド・フィンチャーは「絞殺魔」を参考にしたのだろうか。
…さらに余談、変格的な難病ものといえば、「ビューティフルマインド」は「絞殺魔」に少し似ている。「絞殺魔」の前半が現実をリアリズムで描いたのにたいして、「ビューティフルマインド」は××をリアリズムで描いたのだ。後半が難病ものになるのは両者とも同じ。