死刑

どう考えるべきなのかよくわからない。

昔「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問が議論にのぼったことがあったけれども、そりゃあ、まあ、無条件にいけないわけではないのだ。無条件にいけなかったら、死刑だってできない。

アメリカに死刑廃止の州があるのだって、たぶんに原理主義的な観念から動機が発しているのだろう。賛成しないが、ひとつの見識だとはおもう。日本の死刑反対論は、おおくが反国家の観念や、国際協調(?)主義から出てきているのだろう(私がおもってたよりも死刑廃止国って多かったhttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%bb%e0%b7%ba%c7%d1%bb%df)。これにもまた賛成はできないのだが、ひとつの見識であるには違いない。

しかし、死刑というのは、無条件に犯罪抑止力になるわけではない。池田小事件の犯人のように、死刑になってもいいとか、あるいはすすんで死刑になりたい犯罪者の犯罪は抑止できない。

復讐として死刑を行うのであれば、死刑を被害者遺族の立会いのもとで行うべきではないのか。またさらに、復讐であるならば、犯罪者当人よりも、その係累を死刑にしたほうが、よほど、被害者の心の痛みが加害者に伝わると思うのだが。

抑止力として死刑を行うのであれば、公開処刑にするべきではないのか。中国や、北朝鮮や、サウジアラビア(「華氏911」で見た)のように。

こう考えをすすめてくると、アメリカのいう人権が、プロテスタントの立場からの原理主義だというのがよくわかる。人権抑圧を阻止するために、戦争も辞さないわけだ。繰り返すが、賛成はしないがひとつの見識だとはおもうのだ。

私としては、こういう困難なごたごたを考えずに済むように、自分が不幸にならないように各自が配慮すべきだという意見があるのだが、たとえば「退屈論」の最後のほうでの森田療法への評価にうかがえるように、猫猫先生と私の意見は対立しうる。配慮というのは、日本においては、自制しろというのと事実上ほぼ同義であるのだから。