人の気持ちが、分かる…。

小説が読めればそれでよくて、映画をいらないという人はいて、私も病的な吝嗇のケがあるから、なんとなくはわかる。まあ、小説好きが、ケチであるといいたいわけではないのだが、映像や音声によって想像力を制限されたくないのだろう。いま、大江健三郎の新作を、あまり熱心でなく、ぽちぽちと読んでいるが、映画について語ることというのは、いちばん映画を見ることから遠いことであるからして、だって使う脳の位置が違うのだから、かえってじつはいちばん小説的なことではないかと思うのだ。

大江の小説が好きなくらいだから、私は波乱万丈の物語にはあまり興味がなくて(言い切っていいのか)、中学生のころ『モンテ・クリスト伯』も中途で脱落したし、『ねじまき鳥クロニクル』も義務感で読了したし、『虚航船団』も第二部など飛ばし読みであった。少しでも倦むと平気で結末を読むから、私は推理小説などろくに読まないのだ。

案外私の小説への興味は、映画的な関心から来ているのかも知れないぞ。カメラがページに寄っていって、何が書いてあるのか観客に判読できるくらいに近づいたら、それを読む俳優の声が聞こえてきて…。なんで活字から声が「聞こえて」くるのか不思議で仕方ない…。まあ、それこそ脳がそうなっているから、なのだが。

映画だけ見ている生活が不安で、だからこそ老年の大江健三郎は映画について語ることに魅せられる…。私という心のフィールドでのみ展開される大江についての幻想。しかし、映像を見続ける、なんの外部テクストも手がかりにせず、映画を見続ける、マンガを読みふける、そんなことがありうるのだろうかと、大衆の生活を、大江も私も(!)想像して不安になるが、まあ、無知な連中は無知な連中なりに、外部からうけとる表象を自己像と齟齬をきたさない程度に受け入れるのだろう。

しかし、ボタンをスイッチして、あるいはマウスをクリックして音楽が始まるという、ここ数十年の音楽文化の展開は、それこそ画期的なことだったのだなあ、と、自分がたとえば実際より百年前、1876年生まれの人間だったらと想像することで、ひしひしと感じるわけだ(私が好きな作曲家のラベルが生まれたのが1874年←その生涯を私はある程度は知っているという意味ですぞ)。オンデマンドで現象が再現される不思議! いまの人は、そんなことなんでもないことと思うかもしれないけれど、百年前は、そんなこと、一部のエリートのみが享受できる悦楽だった。

絵画だって、まあ現象といえば現象で、千年経てば、おおかたのものは散逸するだろう。しかし音楽の儚さは比較にならない。百年以上前は、人は、音楽会に参加し、聴衆のマナーを相守ることで、音楽を可視化していた。辻楽師の奏でる音楽だけが、真にとりとめのない音楽だった。

バッハの音楽はどれもバッハの音楽だが、『英雄』と『合唱(第九)』はそれぞれの個性がある、というような意味で、芸術家の作品ではなく、芸術家そのものへの興味というのは、社会の情報化への対応策なのかもしれない。芸術家の小説といえば…、やれやれ、この上、トーマス・マンまで読めというのか(誰に言ってるんだ…)。しかし『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』は既に落手してある(私は何者なんだ?)。