内部と外部

なにしろその人生の初めから手書きの経験がないという世代が(私のことだが)、もう30歳を越えているのだ。

安部公房の談話集『死に急ぐ鯨たち』で、インタビュアーの小林恭二が小説執筆をワープロではじめていて手書き経験がないと話したのに、安部が驚いていたのも、遠い昔の話である。

ワープロを使えば論理的な文章をみなが書くようになるか、といえば、そんなことはなかった。感情的で非論理的で自己中心的で、ゆえに些末的で攻撃的な文章群が、無料という強力な誘因によって、大量に跋扈してしまった。

ワープロによって、商業的文章は、あるいは饒舌性を増し、資料の網羅性を強めたかもしれないが、一部がそうなったのではなく、多くがそうなったのだから、情報の正しさを考究する手間が増大しただけで、利便性は低下したくらいだ。

要するに、大づかみに大体のことを言うという知性が、商売にならないから、衰えてしまったわけだ。小泉信三の本を読んでいて、私は、戦後の軟文章のすべてを悪貨として疑うに到ってしまった。

映画を所有するには、紹介と映画評論とスチール写真の蒐集によるしかない時代から(金持ちはフィルム丸ごと所有できた)、ビデオによる所有に移った時点で、文章におけるのと同じような大衆革命が起こってしまったのだと私は思う。

ミステリやラノベが浸透し、それすら市場が縮小しているという現在は、要するに大衆革命が順当に進行しているのに過ぎない。映像産業がこれから成り立たなくなろうとしているのも同じだ。

大衆革命といっても、自立できない大衆が、自分たちをささえる文化資産・資本を、ネットや違法ダビングで自ら切り崩しているのだから、あほらしいったらない。

それは外部なのだ、愚民どもよ。自らの心に映じたからといって、けっして、おまえらの内部のものではないのだぞ。内と外の区別もわからない奴らが、自らの基盤をぐずぐずにしていく……。