時間感覚と「日常」

時間を、運動や行動が主観におよぼす作用であると仮に定義すると、日常というのは、過大でない諸々の作業をマルチタスクしている状態である、といえるのではないか。

何事かに集中していない状態を日常と呼ぶのではないだろうか。

と考えると、これは、「退屈論あれこれ」はすでに書いているから、「さらにあれこれ退屈論」を書かなくてはならないのではないかと思うのである。

話はとぶが、私はついおととい「タイムマシン」を読んだくらいSFに疎い人間なのだが、ワープ航法、これがいつごろ、誰によって、考えられたのかを知りたいのである(調べればすぐわかるのだろうが…)。

私はスペースオペラというのをくだらなく感じる類の人間なのだが、海賊ものの冒険物語を科学時代にあうようにアレンジしたものだくらいのことは、まあ、わかる。

さらに関係ない話をするようだが、私は仕事にロマンを結びつける感性が嫌いなのである。だからヤマトとかガンダムとか嫌いなのだ。要するに政治思想=宗教で食ってるだけじゃねえかとしか思えない(私は、戦争なんてやめればいいじゃねえか、宗教なんてすてればいいじゃねえか、としか思えない)。999は好きだが、あの銀河鉄道による旅行は「仕事」じゃないからね…。沖田艦長とか、ブライト艦長は、あれは仕事をしているわけでしょ…。泉のあはロマンにつきうごかされてイングラム(個人的にアルフォンスと命名。「命名すること」に最近執心しているのが、千と千尋やポニョの宮崎駿である…)に搭乗していたけれど、ちゃんとクールダウンさせる相棒がいたからね、だからパトレイバーは好きなのである(『ダークナイト』のジョーカーを思わせなくもない内海が勝ち逃げしていたら、さらに傑作だった)。

嫌いだと宣言してから、それを読むという、やっかいな性格の人間なんだ、私は。スタートレックでも(映画版はすべて未見)読んでみるかな…。