『プロ倫』への疑問

図書館から岩波文庫を借りて読んでるのだが…。

そもそもピューリタニズムがキャピタリズムへ流れていくことが「逆説」にはおもえないのだ。企業家なんてふつうは吝嗇なものではないだろうか? 往時のホリエモンのような贅沢三昧は、ありゃ見せ金を派手につかうことでカモ投資家を騙すためにやってたのだから。

合理主義が、ふつうは科学的合理主義、経済的合理主義を指すことも疑問なのだ。戒律にしたがって敬虔に生きるのだって、要するに合理主義ではないか。それを宗教的合理主義だなどと名づけると、宗教の側から抗議があるかもしれないが。合理主義、と呼ぶと自発的な印象が薄れるから…。「詐欺師」ヴェーバーは、そういう世間の風潮を逆手にとって『プロ倫』を書いたのかもしれない。

ついでに余計なことを書いておくと、ふくれあがったバブルというのは、つまりは剰余(あまったもの)の意味づけの肥大化のことだったのかもしれない。合理主義の行程は、剰余を生産する過程でもあった(世界−合理主義に適合した部分=剰余)。剰余にたいする肥大化した意味づけを基礎として経済を考えていたら(これは合理主義が手を染めてはならない「錬金術」だったのだが)、ふとしたきっかけでバブルはみずからの無意味性を回復してしまったのだ。これが現在の経済危機なのではないだろうか。私は無借金経営なのでどうでもいいんだけどね。