過去と未来しかない「人間」

予定を立てることで人間は未来を現在に変換しているというのは養老先生の説だけれど、自分の生活をそういうふうにするからこそ、人の頭は、つまり言説の内容は過去と未来に振り分けられてしまう。

現在についての話はプライバシーに障るというわけ。

戦争がおわって情報化社会になったら、人との会話が、時候の話題から趣味の話題へと変わる。釣りやスポーツだったら、まだ天気はかかわるけれども、芸事になってしまうと天気は関係なくなって、つまり自然とは切り離されてしまう。暑いか寒いか、風が吹くか雨が降るかは、ようするに身体にかかわるわけで、つまり身体とは現在そのものなわけだ。

トリコロール 青の愛』を見た後「唐沢俊一検証blog」に行って、kensyouhan氏が引用している岡田斗司夫の発言を読んで、いちいち最近のアニメをみたくないというのは、つまり現在がいやだから過去と未来に生きるよ、という宣言なのだなあと思った。

知識と希望を語っているけど、愛について語っていないわけじゃない(「未来の見通しかた」を娘といっしょに考えてあげればいいのに)。過去についての解釈を深めたいというのは、希望というわけである。つまり、ここにいたって、ある個人のなかで時間が連環する(!)のだ。

ヒトが現在そのものになってしまったから、ヒトは現在を語ることができなくなってしまったわけである。