テキストとサブテキスト

筒井康隆の『着想の技術』を読まずに『虚人たち』や『虚航船団』を読むのは難儀だと思う。一方『唯野教授のサブテキスト』は、タイトルに反して『唯野教授』を読み解くのに必須ではない。

しかし、まっさらな気持ちで本に向かえば、じつは超虚構文学も難しくない。普通の読解力があれば、道理にかなわないことがあえて書いてあることが判明するからだ。要するにそこまでしてなぜ超虚構文学を書かねばならないのかを知りたい類の読者がおちつかない、そのおちつかなさのことをある読者は分からないと表現したのだ。

私小説のサブテキストとしての評論や評伝はどこまで一般的だったかと思う。もちろん戦前は(戦後も)、純文学を読むことが一般的でなかったと言ってしまえばそれまでだ。しかし超虚構文学でさえじつはサブテキストを必要としないのだから、ふつうの道理にのっとって文章がつづられる私小説に、裏づけとなる事実があるかどうかは、読者にとってはあまり関係のないことでしかない。

私小説にしろ超虚構小説にしろ、それが作品として存在するために必須なのは作者の動機のほうである。超虚構路線を書き尽くして『ロートレック荘事件』や『新日本探偵社報告書控』を書きはじめた頃の筒井は、商業的反応がかんばしくない超虚構路線に不安を抱いて、前衛文学の雄だったジョイスがなにを心の支えとしていたのかを柳瀬尚紀に質したりしている。