映画版『童貞放浪記』

原作では萌が留学することをわりとあっさり処理しているのに、映画のほうではけっこう重要なフックにしている。これがなければ映画にならなかったろうな。

淳が女の肌をもとめて彷徨する夜の街は、設定上は大阪なのにロケ地は新宿? この、大阪と東京を行き来する話の内容の「豪華さ」は、貧乏人の私には、ちょっと意外の感を得るものがあった。遠距離恋愛なんて、メディアのなかでしか見聞きしたことがない。

夕方の川べりのデートシーンの映像は異様に暗い。もっとふつうの映画っぽくすればいいのにとおもった。

全体的に、大学で働く人の、ある種の浮世離れした感じを、とくに説明することなく描いていて、ちょっとどうだろうと思った。もうちょっと説明があってもいい。原作ですら、高校生の頃の淳について説明したりして、読者を「あっため」ていたのだが。

自分の頭の中だけであれこれ思いめぐらしてしまって、現実の女におたおたする。そういうものとしての「童貞」を描くことには、映画はどうも達していない。勉強ばっかしてて童貞喪失の機会をのがした元東大院生の部屋にしては、淳の部屋はすっきりしすぎているし(偏見?)、風俗にもそれほど気後れした感じが見られない。女性器がどうなっているかわからないから見せてよ、こういって女に頼んだ淳は、そういうことはこれとやりなと女から小指をつきだされる。童貞らしい場違いな度胸の発露ともいえるし、童貞にしては妙に玄人じみたことをしていてちぐはぐだともみえる。

淳が恋愛にあこがれていて、しかしその望みを達せられなかったという「前史」をエピソードとしてもりこんでおくべきではなかったかと思うのである。童貞というのはモノローグ性と切っても切れない縁にあるのだなあ、と思った。夫というのは動物だが、童貞は考える人である、というような。動物として童貞をながめると、それは半端で役目を達せられない夫でしかない、と。だから、萌は淳に「三行半」をつきつけるのだ。処女と一緒に修行してから来い、と。

萌が、ただかわいいだけのような顔つきかと思ったら、後半ちゃんとアラサー間近の女の陰のある険しい表情をみせたりして、神楽坂恵は健闘している。山本浩司は「おいしい役」な半面、演技の幅を封じられた。

淳の前では萌はつかみどころのない女として終始したわけだが、観客の目には、意外とわかりやすくて、萌は外人についていくことへの不安から淳とつきあった「だけ」なのだということが明白で、だから恋愛ではなくて、それがちょっと映画にたいして躊躇のようなものを感じさせる。事実関係が不明瞭であることでかえって読者にリアリティがあたえられるというようなことが、映画にはおこらないのだ。アメリカのシーンは、諸刃の剣だったように思う。

女が自由に行動した結果を描いた映画として、もうすぐ公開の「プール」という映画がある。観る人によって感想は異なるだろうが、この映画の小林聡美は、萌の二十年後なのかもということを思った。私は、わりと、この映画の小林に悽愴なものを感じたのだが、どうだろう。