慣用句がひらかれるとき

ある階級があって、その階級内にも上下があって、その上のほうに高山宏、中間のあたりに松岡正剛、下にいくと唐沢俊一がいるのではないかと…。衒学階級といおうか。

この人たちを見分ける特徴。上も下もひとしなみに、慣用句や慣用表現をわざわざひらいて、おかしな表現を作ってしまうのだ。いま高山のブログを読んでて「目のつけようが素晴らしい」という表現にでくわして、あっと思ったわけだ。なぜ「目のつけどころが違う」とか「着眼点が素晴らしい」とか言えないのか。

松岡の「1957年は物理学の事情が一変した年にあたる。リーとヤンとがベータ崩壊の研究のあげく、「パリティが保存しない」ということを発表したからである」という表現も、変だ。閏年かなにかではないのだから「にあたる」はないだろう。本の読みすぎで人為と自然の区別がつかなくなったのではないか、というのは言い過ぎか。「リーとヤンがベータ崩壊の研究によってパリティが保存されないことを発表した年は、物理学が一変した年と言いうるだろう」などのほうがいい。私は物理に無知だからパリティがなにかを知らないが、松岡の文章からはパリティが常に保存されないのか、ある条件で保存されないのかがわからない。前者なら保存しないではなく存在しないとしなくてはおかしい。