マスコミの構造

友人が昔、「私の部屋」みたい
な雑誌に載ったことがあって。その子は普段、トイレのドアの向かいの壁が斜めになって
いる構造なのは使いにくいと愚痴っていた。それがなぜか雑誌掲載時には、この斜めの
壁がカッコよいから気に入っています――と、正反対の話になっていたという。

その友人は、インタビューにこたえたことと逆のことを書かれちゃったと笑っていたが、
傍でみていたこちらは記事を書く人って何でこんなことをするんだろうと思い、そして、
いまだに不思議に思っていたりする。

思想信条によるものとか、読者に受けるために面白おかしくするとかだったら、批判的な
気持ちにはなっても、理解不能な動機だとまでは思わないんだけど。でも、嘘を書いて
話が面白くなったわけでは別にないし、嘘ではない記事をつくることだって簡単 (住んで
いる人間の意見としてではなく地の文で書けばよいだけ) なのに、何でわざわざそんな
ことするんだろう、と。
http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-entry-233.html

読者に取材対象を変人だと思わせたいから、に決まっていると思うのだが、どうでしょうか。「受ける」というのは、蔑まれるか崇拝されるかのどちらかしかない。お笑い芸人のファンをある種の人間が「信者」と揶揄するのは、その点で、この機微をよく表現していると思うのだが、どうでしょうか。

事実がどうなのかにしか関心のない人は、考察対象に蔑みも敬いも感じないわけで、犯罪評論家が世間から不謹慎と思われがちなのは、そういう個人と世間とのマナーのギャップに起因している。

受けるというのと、注目をあびるのとは似て非なるものと考えたほうがいい。と思うのだが、どう(しつこいか)。「へー酒井法子覚醒剤やっていたんだ」止まりのひとは「注目した」人。「芸能人が調子にのって覚醒剤に手をだして、だから…」などと解釈しだしたら、その人には「受けて」いる。





追記。

コメントのやりとりをながめていると件の雑誌は、建築やインテリアにかんする雑誌なのらしい(「私の部屋」というからてっきりファッション系のオシャレ雑誌の企画なのかと思った)。だったら広告主にたいするおべっかに決まっている、と思う。そもそもライター氏は斜めの壁について書かなきゃよかったのだが、建築業界のまわし者として取材を行ったのなら理解できる。

ライター氏は被取材者である「友人」氏にあえて壁について意見を質したのかどうか。質した上でそういう返答(不便だ)が返ってきたのなら、ライター氏は想定しえた不都合な回答が現実になってしまってちょっと困ったろう。困った結果、予定にしたがってねじ曲げたのだろう。誘導尋問の手間を省いたわけだ(1)。

しかしライター氏が質してもないのにインタビューの現場でたまたま「友人」氏の口から出たいつもながらの愚痴だったのなら、なぜライター氏はそれを聞きながさずに、しかもねじ曲げた上で利用したのかがわからない。業界への歪んだ忠誠心か?(2)

そうではなくて、単に聞き違えた、まちがっておぼえて帰ったという場合もあるだろう。それならやっぱり「どうでもいいこと(斜め壁)を喜ぶ変人」として記事を読者に印象づけようとしたからに違いない(3)。

注目すべきは、「不便」(機能)という意見が「好き」(嗜好)という感覚にねじまげられたことであって(だから引用中の「正反対」というのは実はまちがっているのだ)、どちらにしろある一定の意図がなければおこらない変更であることだ。