殺す人々

 本屋で映画秘宝イングロリアス・バスターズ読本をちょっと立ち読み。タイトルのつづりが間違っているのは、うかつにも気づかなかった(気にしてもいなかった)。

 タランティーノは殺すことに興味はあっても戦争にはそれほど興味ないんだろうなということは、解説本を読む前から感じていたが、タランティーノは本はあまり読まずに、いま生きている人々からいろいろリサーチしたらしい。これもひとつのやり方だと思う。だからこそ、『イングロリアス・バスターズ』のキャラクターたちは、イデオロギーから自由で「生き生き」としているのだろう。

 映画芸術で、荒井晴彦らがこの作品に呆れていたが、要するに、タランティーノにとっては政治はたいして切実な問題ではないということなのだ。荒井らの世代が政治にアクチュアルなものを感じて宗教などを軽んじたように、こんどはタランティーノらの世代が政治をアクチュアルなものではないとして軽んじるようになった。どのような暴力であるか、どのようなゲームで飲みの席は盛り上がるか、それが年端も行かなかったころに政治の季節が過ぎてしまった世代のリアリティなのである。

 アメリカが(べつにアメリカだけではないが)暴力の世界であるのは、いまにはじまった話ではない。

 たまたまブルーレイの画質を体験するためにTSUTAYAから『フルメタルジャケット』を借りて見てみたのだが、キューブリックは殺しにも関心があるだろうけれども、より多く戦争に興味をいだいているようにみえる(作品歴的にも、そうだ)。演劇に興味があるようにはあまりみえないのも、タランティーノと対称的なところだろう。

 『レザボアドッグス』で拉致した男の耳を削ぐのなどを思い出す。タランティーノの暴力が「ああ」なのは、はじめから一貫していたのだ。

 どうやって定型を利用したり、あるいは「外す」かというのは、この世代の宿命なのだろう。『イングロリアス・バスターズ』でいちばん好きなのは、パリ郊外の酒場でのシーンなのだ。はめを外した馬鹿笑いと、一瞬の惨劇。殺伐とした世界が生み出した「洗練された」ユーモア(人間らしさ)の表現。