『中島敦殺人事件』

中島敦殺人事件

中島敦殺人事件

あらすじ。1986年、実家住まいの26歳の大学院生菊池涼子は、30すぎの非常勤大学講師藤村敦と知り合い、通じるようになる。菊池は樋口一葉の作品に関する解釈の発表を有名作家に先をこされて慌てる。藤村は中島敦の創作活動がオリジナリティに乏しい旨を学会発表する。藤村は文学や文学研究、一般社会の文学受容について思うところを菊池に披瀝する。

 ハーマン・メルヴィルが20世紀の作家ということになっていたり、いろいろフィクションの粋がこらされている。

 男の部屋のあまりの汚さに女が発奮して掃除をはじめることが、ふたりの関係が親密になりだすきっかけになっている。これ以前に藤村の部屋がいちど読者に紹介されて、そのときには部屋が汚いことはちらとも触れられなかったのだから、ここは文章の効果ということになるのだろうが(映像では成立しない)、不潔さにたえかねた女がいきなり男の部屋を掃除しはじめるのが不思議な感じなのだ。手持ち無沙汰な男を部屋のまんなかにつったたせることで、テレビドラマにもありそうな「絵面」にしているのだが、唐突な感じはいなめない。

 熱をだした男の看病をする女というのが、たまたま最近見た『ボーイズ・オン・ザ・ラン』の、男女をひっくりかえしたようで、この偶然はおもしろかった。

 中島敦は、たしかに不気味な作家だったとおもえなくもない。二次創作というか、勝手な注釈をしかし文学的に整えてるだけなのだ。山本夏彦中島敦を熱烈に讃えたが、山本も中身のないスタイリストだった。山本は若い頃に自殺を試みるも死ねなかったので、体が自然に働きを止めるまで生きていることにしたのだろう。その山本も死んだ。私も20代は「かめれおん日記」を愛読したものだが、30をすぎたいま「自我に関する不安は幼稚な文学的主題にすぎない」という小谷野説にまったく同意するのだ。自己という現象が比較を絶するあたりは、宗教という現象がおなじく比較をゆるさないのと通ずる。小説は哲学になってもいけないし、宗教になってもいけないし。

 高度消費社会はロールモデルをいたずらに分化させた(この小説にもいろんな人々がでてきて、かれらについて涼子はあれこれ思う)。自我の不安は(比較対象物がないから)語るに値しないが、身のふりかたの不安もまたとりとめがないものになってしまった。恋愛にしても、就職にしても。

 「室田教授がうん、と頷くのを(涼子は)目の片隅でとらえた」というのがいい。ここは私は『電波の城』の細野不二彦の絵がしぜんに浮かんできた。これが学者の業務の「本体」なのだ。引用されなければ、言及されなければ存在しないも同じ。

 超世代的存在としての大衆、ということを思った。普通に考えたら、小説なんて、江戸時代の戯作のように、その時代の活きのいいものを読み捨てればいいのだ(それこそマンガのように)。それをせずに、いくにんかの作家をえらびだし、詳細に研究することによって、逆にそれをあがめる大衆というものが確固となっていく。学者の仕事が確固としていく。「平和」ということの実態というか、必然(中曽根の名前も懐かしい)。「希望は、戦争」などというブロガーが注目を浴びる、20年前の物語。