テレビないし妄想

知り合いと古谷実のマンガについて話をしていてふと気づいたのだが、古谷のギャグってテレビからノリを得ていて、それは赤塚だってトニー谷の映画から取材していたからとくにどうということもないが、古谷のは「妄想」なのだった。古谷のギャグは妄想だから選択がない。自分が自覚して馬鹿をやるトニー谷の世代と違って、古谷が依拠したダウンタウンらの笑いは、自分たちがテレビのパロディをやることによって、馬鹿をやる自分たちの馬鹿さ加減の責任をテレビ文化に押し付けたのだ。だから彼らには選択がない。

 たけしはテレビのお約束をつっこむだけで笑いが取れた。ただのつっこみだけでは面白さを主張できなくなったダウンタウン世代は、「ひょうきん族」の先をいくことを迫られた。妄想から形式を抽出してギャグは成立していたそれまでの歴史から、妄想をそのまま視聴者に提出したり、素人のジジイを視聴者になげだしてその顔からセルフサービスで妄想することを彼らに強いたりした。これが平成はじめの十年の笑いの変遷史だった。地が図になったのだった。