完全監視社会と権威主義

夫婦別姓でなにが悪いんだと私は思うほうだが、そう思わない人もいっぱいいる。もちろんいたってかまわない。私は死刑に関しては、ちょっと変わった考えをもっていて、死刑を廃止するか、存続するとしたら公開刑にすればいいと思う。どうせ『チェンジリング』や『グリーンマイル』のように死ぬだけですよ。死にはドラマチックなものはありませんよ。動かなくなるってだけなんだから。そういえばネット中毒してたころには私も各国の処刑映像をばかみたいに見あさってたなあ。スラヴォイ・ジジェクも死刑賛成派のようだ。


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もちろん死刑を廃止して、殺された人が殺され損になってはかわいそうだから、殺人をなくさなければいけない。『マイノリティ・リポート』のような監視社会をつくればいい。いま現在の技術で、超能力者など存在しなくても、りっぱなものができるだろう。いったいなぜ監視社会がいけないのか、私にはよくわからないのだ。相対主義をかかげるなら、いっそ自分のプライバシーすら公開し、他人のそれも公開することを要求するなどすればいいではないか。「この淫売に石を投げる権利があると思う者のみ石を投げろ」。イエスは人間にかんしては相対主義で、神だけが絶対だった。その根拠は信仰するという人間の心の働きに置かれていた。そのために、イエスの言動そのものが「監視装置」になってしまったのである。技術を必要としない究極の「監視装置」。人びとは「監視装置」の存在を恐れて、その発生源を十字架に掛けて抹殺した。


まだ権威主義がなりたつとみんな心のどこかで思っているんだろうなあ。なりたたないよ、情報を制限すること以外には。それをしないことにしようとみんなで決めたんでしょ。その1、あなたはあなたの自由に生きる。その2、神はいない。さあ、それでどうやって他人にあなたの独自性を起拝させようというの。ラカンを口まねすれば、「あなたにおいて他人は存在しない」。存在しないものを説得することはできないだろうね。


1930年代のヒッチコックの映画は、ずいぶん攻撃的というか挑発的というか、露骨にいいたいことを言っているだけという印象があって、かえって新しいというか、はらはらするような感じがする。このころの作品を見てしまうと、『サイコ』でさえ、もってまわった印象に変わるのだ。『サボタージュ』がいい例だろう。表向きは売国奴が死ぬ話なのだが、実は国家だのイデオロギーだのはどうでもよくて、他人への同情が欠けた人間は殺されてもしょうがないという主張を述べている。よく考えたらこれは大いなる矛盾である。「殺されてもしょうがない」と思うことが「他人への同情に欠けた」行いであるからだ。『サボタージュ』や、後年の『マーニー』あたりが、ヒッチコックの矛盾に満ちた「人生論」なのだろう。1930年代のヒッチコック映画は、他者の存在しない一人遊びだったのだ。アメリカ社会の富が、ヒッチコックの人格の崩壊を救った、あるいは、おしとどめていたのである。