『音の城 音の海』

発達障害の子供たちに楽器をあたえ、演奏を通じて子供たちの情操をはぐくむことを目指した取り組みを追いかけたドキュメンタリー。

即興演奏に長けた音楽家たちが、子供たちの指導者である大学院生をサポートする。彼らの顔合わせの席で、どこまで子供たちを導けるか、また、子供たちが出す「音」を、「音楽」へ鍛えることなく、子供たちの純粋さの象徴としてあやすように扱うだけで取り組みを完結させてしまうのではないかと、音楽家たちは不安や疑問を大学院生たちにぶつける。

子供たちは、音を、楽器を利用して発生させることには、それほど気後れした様子をみせない。むしろ、うるさいくらいに鳴らしつづけ、音楽家たちの統率を受け入れない。これは、予想されたことであった。

音を出す意欲がなくて、楽器を手にしても上の空だったり、絵を描くことをやめられずにずっとクレヨンを手放さない子供たちもいる。絵が視覚対象物であるなら、音は聴覚対象物であるだろう。子供たちは、なにがしかの対象物を生み出すことが面白くて、そのことに夢中になっている。音を出すことから一歩ひいて、その音を、どのように配列してさらに飾るかといった、演奏としての工夫を考える発想は、子供たちのなかには、まだ浮かんでこない。

大きな男の子が、指導者のいうことをなかなか聞かない。制止をふりきって、練習場のあちこちを走り回って、大声でわめきちらす。いままで男の子が聞いてきた、ありとあらゆる「声の記憶」を、男の子は、無制限に、そして状況とは無関連に、とりとめなく表現しつづける。そう、声もまた人が自由に扱うことのできる「音」なのであった。人が日常には意識しない、声や言葉の「無意味さ」を、この男の子は観客に明瞭に示してしまう。このシーンはとても面白い。

自分の出す音に変化を加えず、単調なリズムに安住している子供たちが多いなかで、カンのいい子供たちもいる。自分の発する音が他人に影響を与えていることに気づく子供たち。そのことを面白く思って得意になる様子や、気恥ずかしくなり照れてしまう様子が、映像からうかがえるようになってくる。

指導者である大学院生たちも、はじめは不慣れな様子で、音楽家や子供たちを前にしたオリエンテーションの場で「インプロヴィゼーション」とか「ジャンル」といった言葉を「不用意に口にする」。音楽家たちにとっては自明のことだし、子供たちには何のことだかわからない。

楽家たちは、子供たちのいわゆる「合奏」から、懸命にアンサンブルを引き出そうとする。試行錯誤の過程で、音楽家から、規律のなかでの自由が求められるという感想もでてくる。子供たちはでたらめに音を出しているのであって、それは即興演奏とは違う。子供たちは自分の出している音に自足していて、それが演奏へと発展しない。

楽譜をただしく再現するという意味における演奏は、健常者だったら、多くの子供は小学生の段階でできるようになってくる。いわゆる解釈というものを、自らの演奏行為にもりこめるようになってくるのは、これは個人差が著しいが、10代の後半から芽生える情操であるだろうか。健常者の子供は、楽譜の再現は巧みだが、感情を表現することは成長につれて気後れするようになっていく。しかし「音遊びの会」の子供たちには、その点において、多くの子供たちより優位な性質が与えられているといってもいい。

会の子供たちは、それぞれの場に際してマナーを変えるという発想がない。それが、指導者の統率をうけいれないという事態をひきおこす。会として演奏会を催し、観客を子供たちに対面させるということは、子供たちにとってもよかったのではないだろうか。多くの子供や大人たちとちがって、会の子供たちは他人の目を気にする性格が薄く、実際に観客の前に立つという経験は、貴重ななにごとかを子供たちにあたえたはずである。

プロの音楽家は、本気とリラックスの間を自由に行き来できる。それが演奏に心地よさという彩りをそえる。会の子供たちには、そこまでの境地を望むわけにはいかないが、子供たちには反応の良さという美質が具わっている。音楽家たちは、音による子供たちとの対話を実現するという方向で、「演奏」を成立させることを目指す。その楽句、パッセージは短いものにならざるをえない。そこに独特の妙味、ユーモアがただよっていく。

演奏会の様子はいかにも楽しげで、これを実現した指導者や音楽家たちの努力が結晶していて、そして楽しげな子供たちの愛らしさが、見ているこちら側の心も弾ませてくれる。会の女の子のピアノ、音楽からのトランペット、ギターの組み合わせによるトリオの演奏が印象深い。はにかんだような女の子が奏でる呟くようなピアノの音に、(意外な特殊奏法による)トランペットの微弱音が対話していく。音楽家たちは、会の練習時間において「小さな音」を表現することに心を砕いていたのだが、この繊細な演奏は、その目標を実現した瞬間であった。「おわりだよ」演奏の終了を宣言する女の子の声がユーモアをたたえて、しかも愛らしい。

音遊びの会はいまでも継続していて、演奏会も行われているらしい。幼児教育や音楽の演奏、グループ活動についてのヒントに満ちた映画なので、それらに関心のある人はぜひ劇場でみていただきたい。
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