人々が言葉をうしなうこと

そういえば、戦後の結婚って「両性の合意」によるのだった。家の意向なんかではなく、当事者が決めなさいよ、と。これって、よく考えたら、すごいことだよな。すぐ解消(変換候補のいちばんめが「甲斐性」だってw)できる、できて当然のこと、ということになる。

人間の幸福が、個人のうちで完結する。だから、結婚そのものが、あんまり覗き込むべきではないことに、つまりはテレビタレントの営業品目のひとつにおちぶれる、と。

結婚と縁組という新旧の価値観が、21世紀に入っても、日本という国では、衝突して葛藤している。だから「同姓か別姓かで、揺れ動いている」んだ。もちろん、結婚には、同姓も別姓も、その要件としてまったく意味をもたないわけだ。「そのカップルの好きにすれば」と。つまり、60年前から結論はでているのに、しかし、現在の日本人は、近過去の父祖たちが前衛的な判断をしたことにおののいている。夫婦別姓か否かを論議することに意味があるかのように振舞うことで、足踏みしつづけている。

戦後に成長した小此木啓吾が、あれほど核家族にこだわった情熱が、なんとなくわかる。彼らは本当に「新人類」になろうとしたのだ。

日本国は、軍備にたいする負い目を「解釈」でやりすごしたように、縁組を温存したことへの負い目もまた「解釈」でやりすごしていたんだな。この局面でも、国民は憲法の顔を避けていた。保守回帰していた大衆がツケにまわしていたものに、清算が迫られているわけだ。

そうするとあれだな。事実婚の人の中で、行政の補助をことわる人たちは、政党の交付金をことわる共産党みたいなものか。もらえるものはもらっておけばいいのに。