意識と無意識の関係

意識にはじつははじめとおわりがなくて、懸案とその解決、解決によって得られた信念、懸案にまでいたらなかった伝聞、あるいは経験などが、そのなか(意識のなか)をうごめいている。

養老孟司が無意識とは身体のことだとのべたことがあるけれど、たしかに身体こそははじめとおわりがある。

身体を意識しない意識(へんなの)は、けじめなく今の状態を続行させようとするので、意識に条件を課さなければならないのだ。掃除が下手な人や、部屋を片づけられない人は、精神分析の対象になるだろう。たぶん、体と物の動かし方を知らないか、自分を物と見立てて最適な運用法を自己に適用することを嫌っているのだ。

ふと思い出した。岸田秀筒井康隆の対談で、無意識がどこかにあって…、とどちらかが口にするのだ。まあ日本人の平均的な理解だろうなと思うのである。意識してなかったなにかを知って意識した瞬間にその対象は無意識でなくなっただけである。養老は、無意識とは身体であると、お得意の強引な整理癖でまとめてしまった。

無意識にははじめとおわりがなくて、だから自然にさからって意識はそれらを創作するのだ。