『サイコ3/怨霊の囁き』

まだ1990年になっていなかったと思う。子供の頃の私の心に、この映画の1シーンが強く焼き付いたのである(父親のビデオ鑑賞につきあった)。ベイツモーテルに住み込みの臨時雇いになった歌手志望の男が、連れ込んだ女を裸で外に追い出すシーンである。直後の電話ボックスでの殺人シーンは、もちろんオリジナルのパロディなのだが、なんてことだ、原典の映画を見る前から私はパロディのほうを見てしまっていたのだ。

ノーマン・ベイツが女を殺してあのシーンを再現するべとばかりにやおらバスルームに侵入したら、女は先んじて自殺をはかって手首を切っていたというフェイントが楽しい。しかも朦朧とした女の目には、包丁をもったノーマンは十字架をもったキリストかマリアの像に映ってしまったとする皮肉がさらに面白い。

冒頭の『めまい』のパロディも、ようするに自殺を止めようとするジェームズ・スチュアートの方が死んでしまったらというわけで、ヒッチコックにたいする親愛なる悪意がチラチラしていて楽しいのだ。

終盤にノーマンは母親からの自立を決意して、母親のミイラを「惨殺」して、戦利品としてその手首を持ち去る(警察に連行される)。向こうでは手首になにか特別な意味があったんだっけかなあと私は首をひねる。

宗教にしても精神分析にしても、ようするに「自縄自縛」にかんするひとつの理論にすぎない。ノーマン・ベイツに同一視される長年のストレスから開き直って、『サイコ』の続編を主導する立場になったことで、アンソニー・パーキンスは自縄自縛の状態から解放されていたのであった。アルフレッド・ヒッチコックの死後早々に、その顔に泥を塗ったわけである。結構なことなのではないだろうか。