わたしのアイドルたちとポスト・モダニズム



たとえば、Winkである。このアイドルを「愛嬌に乏しい二流のアイドル」と判断して、それ以上に関心をはらわないという受け手の在り方が「モダニズム」で、「裏側の仕掛人が理屈言いの視聴者があれこれ解釈することができるようにチューニングした新しい型のアイドル」であると見抜いた人は「ポスト・モダニスト」なのである。

「見抜いた人」ってのは私の皮肉なのだが…。





私が1976年生まれだからかどうかわからないが、山口百恵が「重い」のである。立派なのはわかるが、疲れる。





私は1980年代は、本当に馬鹿で傲慢でこまっしゃくれた孤独な鍵っ子だったから、こういう華やかで和やかで暖かくて可愛いものに対して敵意をもっていた。素直に可愛いものを可愛いと言えなかったのである。いまはもうなんでもなく言える。このころの明菜のはにかんだ笑顔は最高であると。

ようするにアイドルとはなにかといえば、歌のへたっぴな女の子を舞台にあげてその子を照れさせはにかませ、観客はその子のかわいさに免じて許す、許すことを楽しむ、という、そういう形のプレイの対象だったのである。本当に歌がうまかった聖子はアイドルのシーンから遠ざかっていった。






リアルタイムにおける私の「大好きなアイドルのお姉さん」は斉藤由貴だった(いま聴くとこの歌の歌詞のありようは、ずいぶんポスト・モダンである。無駄に批評的なのだ)。二十年以上ぶりにこの映像をみて、私は呆然としている。今は2011年、映画の『2010年』も過去のものになってしまった…。