民主主義なんて、偉そうな人間の妄想にすぎなかった?

呉智英の『現代マンガの全体像』の、情報センター出版局版を古書店で安く買った。前に読んだのは高校生のころなので、印象もあいまい……のはずだったのだが、読んでいて鮮明に思い出した箇所がある。

「近代的啓蒙の問題点」の小見出しで、マンガ評論家たちが依拠する啓蒙主義の先例として、福沢諭吉が、かれをみて馬から降りようとする農民(文中では百姓)を叱って、近代人として「頭の高さ」をおしつけたエピソードが紹介されている(この版では78ページ)。このエピソードに呉は感動しつつも「明るいが故の暗さ」をみる、としている。

私は、この箇所に高校生のころから、なにかわりきれない思いをいだいていたのである。それを、思い出した。

これ、ただ単に、福沢のなかで階級意識が抜けきれていなくて、新しい時代になっても殿様風を吹かせていたという話でしか、ない。

昨日見た渥美清のコントが面白かったのでここにあげておくけど、要するに、福沢は、「民主主義者にならねえってのなら、おめ、切腹すっか?」と言ってるのである。


呉ぐらいの明晰な人間だったら、もっと鋭利で直接的な表現をしえただろうに、なんでもやもやした表現になってしまったのかな、と思うのである。

勉強ができる人間が、身分を横断(縦断?)して、社会の重要なポジションについて、社会を運営する。明治以来の日本は、そういう建前でやってきたはずだけれど、あはは、東京電力のエリートたちの活躍を見ていると、どうも、その建前は守られてもいないように感じる。

そもそも、民主主義なんて、偉そうにしたいやつが、さらに身分が下の人間に勉強をさせ、「名誉○○」(伏せ字には自分たちのグループ名が入る)にして、自分たちの勢力を拡大して、旧権力に迫る、という、そういうもんでしかなかったんじゃないの? と思うのである。