「形式ばる」

まだ『日本人の脳に…』を読み終わらない。

英語は形式的で日本語はあまり形式にとらわれない。そういう話なのだが、しかし英語使いだって「リアリィ?」とか「ファンタスティック!」とかは言うのである。ヨーダの「メイザフォースビーウィズユー」だって、ちゃんと聞き手は理解して誤用だなんて思わない。

フォーマルという状況が、わかりきったもののようで、そうでもないのだ。だから流行に「流される」。

日本人だって、相手によっては「それは本当のことなのでしょうか」「それはとてもすばらしいことです」などと言う。ちゃんと形式=文法にのっとるのだ。

日本人は「愛しています」とは言っても「わたしはあなたを愛しています」とは言わない? 本当かなあと思うのである。身分が違う相手に恋愛感情を述べ伝える状況を想起しづらいという日本独自の非言語的な文化傾向によるんじゃないの? その程度のことじゃないの?

「わたしこれ好き」「わたしも」/「アイライクイット」「ミートゥー」…完全直訳である。まだ不満を言う向きには「わたし好きこれ」と書き直してさしあげてもいい。

橋本治が「春はあけぼの」を「春ってあけぼのよ!」と訳したが、これも実は「春は夜明け」と無味乾燥に現代語になおすだけでよかったのではないだろうか。平安人が文法に拘束されていたとは思えない。まさに随筆、筆まかせに語をならべて述語を置かずに話題を足したり移ったり。

春は夜明け。だんだん白くなりゆく山の際、少し明けて、紫がかった雲の細くただよう…