だから「埶術」ですって、小谷野さん

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20101017
芸はウンであってゲイではないという議論をするなら、藝だっておかしいのですよ。

私の旺文社の漢和辞典をどうも私は誤読していたようで、埶+芸(くさぎる)→藝→芸(現行)ということらしい。ウィクショナリーは、埶+艸→蓺…藝と混同→藝(蓺が消える)→芸という流れ。旺文社のは植え刈り総合して藝であるという立場。

藝と芸は略字であるかないかが違いであって、奇しくもそれが埶のはじめにはなかった部分ばかりが残ったというのは、豆知識のたぐいにすぎないのではないか。もともと埶や蓺でさえ、草を植える意味なのだから、もろもろの技の意味に用いるのは転用でしょう。

断りさえすれば「藝」を通すこともある新聞も、おかしいといえばおかしい。ならはじめから制限などするなという話。

『江戸語の辞典』には「転煎」「転柿」「転込む」などあるから、「転」の字は近世からあったのでは(昭和49年の本の表現ではあるが…)。漢和辞典にも「転は俗字」とあるし。

そういえば、あまり本を読まないし、私は学生になるまえは完全に「言」文化圏の外にでなかった。歴史小説など読んでいれば違ったのかもしれないが、福田和也の本をよく読んでいた頃、正直「云う」の連発に違和感があったのである。

この云うは厶(シ)のように、略字をつくるために常用漢字から外されたのかしら、というのは、調べものをしてない私の妄想…。

慌てるな…

日本人の脳に主語はいらない (講談社選書メチエ 410)

日本人の脳に主語はいらない (講談社選書メチエ 410)

149ページで川端の伊豆の踊子を例にあげて、複文の後半の主語が前半のそれとは違うことに言及しているのだが、ここの議論が稚拙である。この本の引用だけでは、隠れた主語が「私」か「踊子」か分かるわけはないのだ。著者の引用より1ページほどまえに川端は「踊子はうなずいた」という一行を置いていて、それを受けての「私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた」だからである。著者が「ちなみに、私は「私」だと思った。日本語は難しい」などと軽口をたたくのを見て、私は不快感を催した。

現在日本語で主語とされている言葉はじつは「場所」なのだという主張はうなずける。