石のニンフ達

…教室前の廊下で、糸子が、十年後のあたし、と称して、御主人の出勤したあと、真夏の真昼間、公団住宅の三階で、ムームーを着て桃尻にべったり坐り込み、つけっ放しの扇風機のうなりだけが聞こえる中で、青空きり見えない窓外をぼんやりいつまでも眺めていて、そのうち、ふと放屁する、とか、日曜日に、御主人の運転する軽四輪車に、赤ん坊と一緒に詰め込まれて、郊外の貯水池までドライブに行って、岸辺に下り立ち、さて別にすることもなく、大あくびを一つして、そそくさと引きかえして来る、とか、そんな描写をして皆をきゃあきゃあ言わせている最中、フサエが例の太い声で、
「だけど、糸子さんがそんな事おっしゃったりするの、腋臭のせいじゃないかしら、そんなに気になさらなくてもよろしいのに」と生真面目に言うと、糸子は、真っ赤になってしまって、なんだかまぶしいような半分笑っているようなくしゃくしゃな顔で、黙ってフサエにむしゃぶりついて行き、ぐいぐい押して階段から突き落とそうとするのだ。
              「石のニンフ達」より

猫猫先生御推薦の宮原昭夫の小説を読んでみた。http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20061021

「石のニンフ達」は、東京(とは書いてないが、結末にでてくる駅はたぶん新宿駅)のキリスト教系の女子高にかよう生徒たちの日常、周囲への小さな反抗や、仲良しグループのじゃれあいを描いたスケッチ。

初出昭和41年。

引用のとおり、文章が現在形なので、小説というよりシナリオを読んでいる気になる。また語り手のいたずらなおどけぶりが、女子高生の生活の日溜り感とマッチして妙味を感じさせる。わたしは内容よりも、この文体にとまどった。最近あまりないような文体だから。「おじさん」ではなく「小父さま」な感じ。

庄司薫の小説を読んだことがないのだが、やはりこんな感じなのだろうか。とにかく感じるのは日溜りのなかにいる少女たちの微熱のようなものだ。わたしは昭和51年のうまれだから、こういう感覚は80年代的だなあと思うのだ。

あるいはこういうセンスが80年代文化を育んだのではないか。この小説を、森田芳光とか大森一樹とかが学生の頃読んでいたんじゃないか、などと空想してしまう。

レーニン?にうちこんでるらしい大学生が実習に来て、主人公のみさをが彼を翻弄する話で小説は終わる。仲良しグループの中でヘタをうったみさをがグループから浮いてしまい、復帰のためのいけにえとして彼に白羽の矢が立てられたのだ。

男がぱっとしなくなる時代の予告編のようだなあと、いつまでもこない女の子を待つべんじょげた(みさをたちがつけた学生のあだ名)氏を前にして、胸が痛んだ。