スピルバーグは諌めようとしていたのか?

 クロード・ランズマンが「シンドラーのリスト」をけなした話は有名で、しかし作家としてのスピルバーグまでをも否定しているわけではなく、自身もかつて「ジョーズ」などを楽しんだとも言っている。

 ランズマンがこだわったのは事実であることであって、自身もフランスでレジスタンスに従事していて、第二次大戦の当事者だったし、その自分がホロコーストを知らなかったことに驚き、ホロコーストの当事者(傍観者含む)の発言だけで「ショア」を構成した。

 事実にこだわったからこそ、生存していた当事者たちを、製作当時ふつうに行われていたカラーフィルム撮影によって収めたランズマンにとって、「シンドラーのリスト」が嘘話の最たるものに見えたのは、まあ当然で、撮影監督のヤヌス・カミンスキーが映画の映像を記録映画風の白黒映像に選択したのは、ランズマンにとってとてつもなく傲慢な判断に映ったのに違いない。その気持ちは、まあ、わかるのである。

 戦後生まれで、サメだのUFOだので名を成したアメリカ人に、わたしが11年かけて追及した事実を虚構化されてはたまらないと思ったのだろう。

 しかし「シンドラーのリスト」は、いったい何を主張する映画だったのだろう。スピルバーグは、きっと、ドイツ人にも善人がいて、もちろんかれも聖人ではなく俗人として矛盾した内面を抱えていたと、そう言いたかったのではないかと思うのだ。

 そういう映画をつくることによって、スピルバーグ自身が、いくばくかでも救われた気分を味わいたいと思い、しかし、そういう「贅沢なのぞみ」が、「当事者」の憤激を呼ぶという、この構図は、「ミュンヘン」でも繰り返されるのだ。