宗教のコピーコントロール

 キリスト教や仏教の開祖は司祭階級ではないところから出ているのだった。

 司祭がつかさどる祭祀は、つまりイリュージョンとして権力者などに神の現前を体験させることなわけで、古代インドで王侯よりもバラモンのヴァルナが高位だった機微は、遠く日本の二重権力制度にまで及んでいると考えられそうだ。

 イリュージョンの力、ということになると、どうしても映画のことを思い浮かべてしまう。

 映画業界が不正コピー取り締まりに力を入れているのは、デジタル社会が本格化しているからで、音楽をやっている友人と話をしていて、音楽ソフトがアナログレコードのままならよかったのにね、と冗談をいいあっている。

 人間の脳は興奮するか、興奮を抑制するかしかないわけで、ダウナーな教義を掲げた仏教が、宗教の民主化の先陣を切ったのは、とても自然というか必然的であるように思う。

 興奮するには、案外金がかかるものなのだ。落ち着くのに費用はかからない。情報を遮断して、深呼吸すればいい。

 貧乏な人間は、せめてパソコンを買って、ずっとYouTubeをながめていなさい、という社会がもうはじまってしまっているが、この現状をわたしは悲惨なものとして認識していたが、これは逆の見方もあるかもしれないと思うのだ。情報社会の娯楽=仏教としての動画サイト。もうイリュージョンを取得するために、労働に従事する煩わしさから解放されるのです、と。