岩井俊二「Love Letter」の複雑さ

 登場人物は、みんな話の全体を知らなくて、そして観客も神の視点を与えられているわけではない。

 ふたりの藤井樹の中学生時代を、樹(女)はもちろんおぼえているし、観客も見ている。しかし神戸の博子は樹からの文章で「知っているだけ」。

 博子と樹の学生時代を、観客はなんとなく「知らされているだけ」。小樽の樹に、博子が知らせたかどうかは定かではない。

 樹(女)の父をおそった悲劇を、樹(男)も博子も、そのディティールをまったく知らない。しかし観客は、樹が父親のように肺炎を発症するシーンによって、間接的に「目の当たり」にする。

 3人のキャラクターはつながっているようで、まったくつながっていない。ストーリーを考えたら、それはあたりまえなのだが、樹(女)と博子が瓜二つという設定によって、その事実をぼやかしてしまう。というよりも、そういう事実を映画の嘘によってぼやかしたいということにこそ製作意図があったのだろう。3人がひとつのリアリティを共有することはなく、つまり、キャラクター描写を意図的に欠落させることで、脚本家はかえって彼らを独立した人格として観客に提示している。そして、観客が小樽と神戸の距離を、いま目にしている映像というリアリティによって埋めるのだ。

 なんて天才的な。