リアリティと認識
おどろくほどあっけない話だが、UFOの目撃報告は、映画やテレビがひきおこすのである。
何千万人が同じ映像をみたら、現実にも同じものを見たと錯覚するおかしな人が、数千人発生したところで、それは大した話ではない。数千万人の中の数千人は、1パーセントですらないのだ。
そして、UFOパニックをいちど経験した社会は、その経験を社会的資産としてなんども再体験する。陳腐化するというわけだ。見たっていう人がいるんだから(言い張る人は、それは実際にいるのだ)、私がテレビで見たようなものを実際に見た人もいるんだろう、と一般人も思いはじめる。そうして一部の人の心の中にUFOは実在しはじめるのである。表象としてなら、ほとんどすべての先進国と中進国の人々の心の中にUFOは「ある」。映像「言語」とはよく言ったものである。
リアリティの領域から、認識の領域へと移行するのである。90年代のUFO文化が陰謀「論」と合流したように。
豊かな社会に住みなれたわれわれは、常に"不必要なもの""あるべきでないもの"の過剰を恐れる習慣がある。一酸化炭素の過剰累積から宇宙人の侵入に至るまで、科学的・空想的な各種の恐怖は、ほとんどこの点から語られている。(「油断!」あとがきより。初出1975年)
わたしが堺屋太一を信用するのは、さりげなくこういうことを書いているからなのだ。