ノーカントリー

 ルウェリン・モスは瀕死のメキシコ人に水をあたえるいわれは無かったのだが、つい仏心を出して水をやりに現場へもどってしまう。

 アントン・シガーはモスの妻まで追う必要はなかったのだが、モスとの会話の行きがかり上、彼は彼女の居場所をつきとめる。もちろん彼はモスとの約束をまもる義務はなかったのだが。

 モスの判断も、シガーの流儀も、合理性というものからすこしだけ、あるいは大幅に外れている。情によって、または狂気に近い信念によって。

 シガーが仕事上顔を見られた人間を律儀に皆殺しにし、それに対し、ムカついた奴でも仕事に無関係であれば、コインの目が出ない場合に見逃すのは、要するに彼が快楽殺人者ではないということだ。彼はモスの妻に会った帰りにアクシデントに遭遇するが、シガーは別に激怒も後悔もしない。

 面白半分に殺された保安官の先祖の話というのが、ようするに原作者のダメ押しだ。必要があって同種殺しをするのは動物もやることで、不必要な殺人を犯すようになって、はじめて人類は人となった。

 理解不能な暴力を前にして、警官をやっていくことに自信をなくした男が、親戚を訪ねたら、不条理な暴力は過去にもあったことを知る。なにも戦後になってから暴力が増えたのではなかった。「老人の住めない国」とは現実(のすべての国)のことなのだ。

 最後のシーンで、TLJが夢の話をする前に、なにかやるべきことはないかと妻に尋ねるくだりは示唆的で、彼の問いに「べつにないわ」と答える妻は、もちろん何の悪意もなしにそう言っているのだが、しかし妻に用なしと宣告され、社会からも引退した元保安官は、夢で死んだ父に会ったことを話すしかない。

 シガーが「動かないで」と語りかけながら人を殺した次のシーンで、モスが「動くなよ」とつぶやきながら、鹿を仕留めそこなったあたりで、わたしには仕掛けが見えすいているようで、正直鼻白んでしまった。シガーとモスのそれぞれの結末は、映画がはじまって10分で、もう予告されていたのである。