「すばらしい新世界」でもいいのでは

「なぜ悪人を殺してはいけないのか」を借りて再読しているが、結局私が猫猫先生に感じるモヤモヤを集約すると↑のようなことになるのではないかと思うのだ。なぜ予防拘束をしてはいけないのか?

スピルバーグトム・クルーズが作った映画「マイノリティ・リポート」は、いたずらに長いうえに、押さえるべきところを押さえてない散漫な駄作だが、「未来殺人の罪」で「身体を拘束する」という設定が、妙に死刑談義に関わってくるような気がするのである。(死刑というのは要するに「過去殺人の罪」で「身体を破壊すること」である)

それを冷酷だと言う人は、真に恐ろしい目に遭わされたことのない人か、たとえ殺されても相手を許すというキリスト教的精神の持ち主か、偽善者である。(54ページ)


文明というのは「真に恐ろしい目に遭わされ」ることが無いように発達するものなのではないでしょうか。

私は監視社会が進んだって一向に構わない。猫猫先生が、もしナチスユダヤ人排斥と植民地主義を掲げなければ何も問題なかったのではないかと言うように、私も、密告社会として悪名高い大日本帝国隣組)やソビエトに、もし潤沢な経済が成立していれば、また違う評価があっただろうと思うのだ。