死の恐怖

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20080507

私も少年時代は死の恐怖に震えていた口で、個人的な傾向として、洗面台の鏡に向かって歯磨きをしていると、なぜか高頻度に、「こんなことをしていてもいつかは死ぬのだ」という想念が浮かんできて、背筋が震え、泣きたいような気になっていたのをいまだに覚えています。

そういう人はけっこう多いと思うのですが、私も養老孟司の本で「救われた」のです。それは死の恐怖を乗り越えたというより、自分が死の恐怖を恐怖することが、実際に自分が死ぬこととあまり関係はなさそうな事を悟ったから、と表現するほうが近い。(あくびをしなければと念じてもなかなかあくびは出ないが、他人のあくびを見かけると自分もつられて自然にあくびをしてしまう人体の不思議さ)

恐ろしいと思う感興は、死なない限りどんどん増幅されていって、身動きが取れなくなってしまう。北野武の「ソナチネ」で、主人公が「死ぬことばかり考えていると本当に死にたくなってしまう」と述懐するのは、作者の正直な思いでしょうし、また逆に、死を恐怖しすぎて死の不感症にもなりうる。「2度死んだ少年の記録」や「近づいてくる時計」などで60代の筒井康隆が死ぬことばかり考えていたのから、のちに突き抜けてしまうのは、世界で著名な映画監督に成り果せた北野が「TAKESHIS’」や「監督ばんざい!」みたいな作品をつくってしまう機微にも通じていそうです。

健康で都会に住み、友達も少ない私だから、先生の言う「若死にの恐怖」というのは、通り一遍の理屈のうえでしか理解できませんが、例えば高級住宅地では、つぎにこの街から出て行く(経済的理由で出ざるをえなくなる)のはあいつだという陰湿な噂が飛び交っているそうです(出典は忘れましたが、実家にあった文春かな)。

抽象的な死の恐怖と違って、増幅もしないが、突き抜けることもできなくて持続しつづける恐怖。「若死にの恐怖」というのは、こういう恐怖のことなのでしょうか。

これは、どちらかというと居場所を剥奪される恐怖に通ずるのではないでしょうか。殺される=消滅させられることへの理不尽感から、実態は同じく肉体が終焉することにすぎないのに、死の普遍性への恐怖から、死の個別性への恐怖へ、恐怖の対象が移ってしまっている。誰だって死ぬじゃないか、何を怖がる、と養老はよく言うわけですが、しかし、一般人がそんな養老の言葉を受け流すことを、養老自身がわかって言っている。何十、何百という死体との付き合いの果てに生まれた養老の悟りを、私なんかがその本を読んだくらいで共有できるはずはない。

都市化が進んで、イエ思想が信じられなくなった現代に、自己の具体的な死への恐怖を恐怖することは、ある種必然的なことなのかもしれません。しかし、これは、他人に口から話したことはないのですが、そう親しいわけでもなく、しかし毎日挨拶していた私の知人が自殺しまして、それからずっと考えていたことなのですが、私の中で、その人は死んでいないのです。この感覚を抱えあぐねていたのですが、つまるところ不合理な結論なのですが、葬式にもいっていないし、私の脳の中では、その人は死んでいないと思うことにしたのです。私が黙っていれば、私が現実認識にエラーをきたしている事なんか、誰にも知られない。私は不合理を信じることにしたのです。私が死んだ後のことなんか知りません。私より先に死んだ人は、私と一緒に死ぬのです。私が死ぬまでは死なないのです。この感興に普遍性なんかありません。