ダビング

ダビングをしないで借りた映画ソフトを見て返却しているのだが、新鮮で、いい(笑)。正直、ダビングをした映画ソフトなんて見返さないんだよな。なんか損したような気になるからするだけという側面もある。もしかしたらそれが全面なのかもしれない。どう損なのかを自ら明確化しないまま、非論理的な「なんか損した気」という感情に引きずられて日々を生きる。これこそが、ここ20年の日本の足踏みの正体なのではないか、とすら思う。

やはり複製というのは巨大な問題だと思う。文書は複写が容易なほうがいい。証拠としてなら、それはそうと言える。しかし、映像や音声は、ストレートに「証拠」となるだろうか。文書なら5W1Hがしっかりしていれば、客観的に自立しうる。しかし映像や音声は、現実から客観的に自立なんて、するはずがない。劇映画として再現された現象は、かつての事実だったか。そんなわけはないのである。映画が表現する事実は製作者の観念や情念を「再現」するに過ぎないのだ。劇映画制作というのは、現実の断片から嘘を構成することなのだから。

手元に証拠がない。しかし感想はある。その感想を知らしめたい。ならば証拠を共有しようよ、ということで、たとえばユーチューブがあるわけだが、しかし、まあ感想は感想として受け流して、そしらぬ顔をして過ごすという手もあるのではないか。それが社会の知恵ではなかったか。公論というものの難しさは、やはり、非実在である観念や感想や論理、知識の共有に関わる、というのは、また堂々巡りの何サイクル目かのスタート地点に戻ったようだが、やはり言うべきである。私たちはシジフォスの労苦から、そうやすやすと逃れられはしないのだということを。

情報について考えるのではなく、そういう情報に恋々とする私たち自身が何であるかを振り返るべきだ。モラトリアムならモラトリアムを、きちっとやるべきなのである。