わが懐はミルクシェイク

筒井康隆の『大いなる助走』の終わりのほうで、小学生か中学生の「文学的強化人間」が教育ママに連れられて、主人公の同人誌作家に引き合わされて、その奇形性に主人公が慄くという展開があったと記憶するのだが、ポール・トーマス・アンダーソンは、私にとってはああいう感じの「映画的強化人間」を思わせる。本人は創作することに必然性を感じているのだろうが、しかし本人の創作を受容するのは他人なのだから、そして他人としての私は、ポール・トーマス・アンダーソンの「それ以外の何もなさ」に慄然とするわけだ。

部屋の中で無聊をかこって、銃の乱射に興じたりする、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のダニエル・プレインビューは、『ブギーナイツ』で主人公が巻き込まれる殺人事件の現場で、半裸になって銃をもてあそんでいた少年ジャンキーの変奏だ。ここに、ポール・トーマス・アンダーソンという人間の悲惨な真実の叫びがある。