見る

『ニコマコス倫理学』をひろい読みしているのだが、岩波文庫版の21ページで「われわれにとっての判明なことがら」から議論を出発させねばならない、とアリストテレスは言っていて、ああ、穏当だなー、と思ったのだ。

「われわれの判明さ」の遥か奥に、レンズが焦点を結ぶときのように、神を据えたのがキリスト教なわけだ。

未読部分をコピーにとって、それはまだ読んでいないのだが、アシモフに「宇宙の発見」という本があって、これはほとんど望遠鏡の歴史の概説書なのだが、望遠鏡の歴史が、キリスト教の発展がだいたい終息しはじめるころからはじまるのが、ちょっと面白い。例外規則を付加しまくって天動説を極限まで発達させた歴史は、心のレンズ精度を極限まで上げた歴史でもあるのだ。

進化論への宗教の側からの反証として、眼球がいきなり眼球に進化するはずはなく、中途半端な眼球は役に立たないはずだ、というのがある。不完全な眼球でも生存の役には立つだろうというのが科学の側からの返答だが、これは語るに落ちたというか、キリスト教が、どれだけ「見る」ことにこだわりをもっているかの証明のようなものである。

アフリカの狩猟民は視力が10あるとか、テレビの特番(笑)で見た気がするが、彼らに必要なのは動体視力であって、神のクリアな顕現など、彼らに必要なことではないだろう。かれらの神は口承によって伝えられていくのだから。