「つまらないから見ない」?
佃煮にするほどネットに転がっている「テレビがつまらない」論というのも、不徹底な議論である。どちらかというと議論ではなく「挨拶」なのだろう。そういう挨拶に私は返礼しないのである、しつけのなってない現代っ子だから。
(追記。よく考えたら「つまらない」というのは議論ではなくて告白だから、そんなの聞かされたって「ああそうかよ」と思うだけなのだった…)
私は、よそが忙しくなったから自然と見なくなっただけだ。
この議論には、かつてのテレビが面白かったということを前提としている気がするのだが、はたしてそうだろうか、そうだったろうか、と思うのだ。
じつは、かつて日本人がテレビに熱中していたのは、それが面白いのか物珍しいのかの区別が、日本人自身にも判然としなかったからなのではないか、と私は疑っているのだが、どうだろう?
テレビという機械によって、終日放送によって、日常とは何かということが問われてしまって、そういう哲学的な問いに耐えられない日本人は、テレビを模倣することで、問いに答えられない自分をごまかすようになった。
お喋りがつい止まらなくなる。そういうシチュエーションは昔からあったろうけれど、しかし、それは時代によって、明治なら明治、大正なら大正、昭和なら昭和によって、様子が違っていたのではないかと思うのだ。
女子高生のお喋りがとてもテンポが速い理由は、それはつまり、彼女らの話題はテレビから来ているわけで、「あれ見た?」→「あれどうよ」→「結論・合意」のサーキットになっているから、単純にテレビの3倍のスピードで会話しない限り、彼女らにとって「遅く」感じるからなのである。おんなじことを3度味わっているわけだから。
ていうか、10代の頃の私がそうだったんだけれどね。
最近のテレビ嫌い論には、「スピードについていけない」という深層心理の不安が隠されているのではないかと思うのだ。スピードについていけない自分を肯定したいだけなんだろう?