歴史の進歩

アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で(第一巻第八章)、生まれが良く、美しく、富と友に恵まれている者がより幸福である、と語るとき、私が、そりゃそうだがと笑い出してしまうほどには、現代ではこの幸福は相対化されているわけだ。ギリシャ時代は現代に比べて娯楽が少なかった。

古代に比べて、少なくとも西洋社会は、神についてより深く広く考えるという選択をして、それに打ち込んだ訳で、進歩したかどうかはともかく、歴史の違う層へと歩みを変えた。

歴史の進歩というのも、素直には使えない概念で、新しい建築なんかを見ると進歩している気もするし、日々のみずからのオロカサを振り返ると進歩していない気もするし、矛盾するふたつの所懐(ドクサ)が同時にきざすのがふつうの人だろう。

よくよく考えたら、人間の周囲のものが進歩しているのであって、人間は変わらない、かえって変化に満ちている、というか、変わったかどうかを判明する客観基準がない(学歴というのも一つの指標だが)のだ。

だから人間の進歩なんて言ってないじゃないか、歴史の進歩って言ってるだろ、と歴史の進歩論者は言うのかもしれないが、それはなんというか堆積なんだよな、と思うのだ。だから、すぐ下のことはだいたいわかるけど、ものすごく下に埋まっているものは、掘り出さないとわからない。

精神分析にも三分の理というか、フロイト説がなぜ当時の社会から注目され、ブレイクしたかを考えずに、非科学的だから排除しろなんて言うのであれば、言ったやつには、おまえなんかよりジクムントの方がよっぽどものを考えていたよと思う。

空気を読むというのとは別の意味で、みんなまわりを見なくなったなと思うのだ。わたしはネットの巡回はしない方だけど、電車に乗ると、他の乗客をちらちら観察する方である。つまり、不躾、なのだ。

空気を読むという場合の空気というのは、要するに雰囲気であって、皮肉な言い方をすれば儀式なわけだけど、しかし橋本治が、大昔に、日本人は儀式については緊張するだけでいつまでも無知のままだ、と痛烈に喝破しているではないか、というのである。

日本人には、それをする資格のないものにばかり図ったかのように手を出す、という特徴があって、キリスト教をまねて国家神道にしたくせに、仲間内では「天ちゃん」などと言いあっていたあたりにハッキリしているが、要するに土人なのだ(西洋の教会で、神父が内々で神を軽侮していたらと考えれば、私の言いたいことがわかるだろう)。というか土人にもなれない、というほうが適切か。