ナチスとハイデガー

たとえば、↓
http://homepage3.nifty.com/bunmao/0211.htm

私なんかが軽々にいろいろ言えるような問題ではないらしい。これは類書を追う余裕がないので、打ち止めにしようかな。

第5章は、ナチスとの蜜月が過ぎてから、隠者的になって政治への発言をしなくなった後期のハイデガーについて論ずる。この時代には、それまでの近代批判から進んで、ソクラテス以後の哲学をすべて存在からの棄却と否定し、大きな影響を受けたニーチェもまた、その存在からの棄却のニヒリズムの頂点と位置付ける。

ここだけ読むと、ハイデガーという人は、しょうもない人なのかと思ってしまうが…。やはりさっさとアメリカに逃げたトーマス・マンのほうがまともだったのかな。

とはいえ、しかし、最後に軽々に言ってのければ、日常性とはテレビでも、ラジオでも、「日常」会話でも、不断に情報がこちらに供給され、とどまることがない状態のことである。エンドを見届けることができない苦痛。そういえば、なにかいつもイライラしていそうな雰囲気の作品ばかり描く江川達也にも『ラストマン』という作品があったことなどを思い出すが、なににつけても自分が最後を見届ける! という人はいるものである。私は、そういう感覚にも、テレビより映画の方が好きだという程度には、まあ同情したりもするのである。