それこそ孤立を恐れないことを勧める

昔だったら死刑になっていたようなやつが、世界的な潮流によって(外圧と言いかえてもいい)死刑にならなくなる、ということは当然ありうることで、こういうことは今や多数決で決めるしかないのだから(昔だって結局は多数決、王は臣下の顔色を観察していただろう)、そして死刑賛成論者であることが邪悪な思想の持ち主であることを意味し「ない」ことは当然のことではあるが、しかしマイナーな思想が多数決に不利であるのは、北朝鮮による拉致被害者の家族の感情が国際情勢に翻弄されるように、どうしようもないたんなる事実の問題でしかない。

私は死刑というのはいやだと思うが、無期懲役だっていやだと思う。ようするに刑罰がいやだというごく当たり前の感覚をもっていて、それこそ将来過失致死をやらかす可能性はあるが(健康に社会生活をおくっている人にはだれだって可能性があるだろう。だから刑もわりに軽い)、しかし、自分が殺人を犯す可能性はよほど低い、私が自殺する可能性よりは低いと思うのだ。要するに私という存在にとっては、死刑も無期懲役も抑止力としては同等に機能している。死刑になるならその罪を犯さないが、悪くしても無期ならトライする価値があると思っている犯罪志願者は、死刑廃止国の国情が極端に悪くなったという報告もない以上、そんなには多くないということで、国家にとってはそんな犯罪志願者の微増など「誤差の範囲内」ということなのだろう。これも味気ない事実の問題だ。

しかし信念の問題として、死刑廃止論者の魂胆には宗教的信念が控えているのだろうから、ドーキンスから宗教など妄想に過ぎないと教化されたばかりの私自身は気に入らないのだが、この私の感覚だって私の信念でしかない。私の信念が、他人の信念に優越する何らかの根拠というのはない。信念を法に格上げするには多数決で諮るしかない。殺人者が死刑になるというのは自然法則ではないのだから。