戦争を肯定せず、死への恐怖を否定しないのならば、国家は溶解していくしかない
グローバル経済とは、個人の合理性に委ねるということは、結局はそういうことだ。
狂人は精神病院へ、悪人は刑務所へという、バットマンのポリシーは(あるいは、http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20080505/p1)、都市という現実によって、死への恐怖という人間の現実によって、痛烈に挑戦される!
あまりにも危険な狂人は、さっさと殺してしまうのが合理的というものだが、バットマンが依拠する近代の人権思想は、その判断に抵触する。
半狂人ならぬ反狂人としての近代人。その近代人というのも、安全保障上の虚構だよと、ジョーカーはうそぶくのである。http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20080717/p1
これはすごい。つまり、近代の破産をハリウッド映画のかたちで宣告してしまったということなのだ。こんなに本当のことをいいきってしまって、クリストファー・ノーラン、大丈夫か。
国家が溶けてしまって本当に大丈夫なのか? と石原慎太郎は危惧するわけだが、その危惧はまるきり的外れなわけではない。死への恐怖を克服しようとした人間たちを描く『俺は、君のためにこそ死ににいく』の脚本家が、40歳近く年下のイギリス人が脚本監督した『ダークナイト』をながめる図を私はつい空想してしまう。「うんうん、こうなるだろうね」と納得してスクリーンにむかう老人の姿を…。