もちろん世の中は性欲でうごいている。それのなにが悪い?――ヒッチコック『マーニー』

『マーニー』は傑作である。しかしそれはアメリカ社会が世界から隠しておきたい傑作だった。本当のことを言ってしまっているから。

『マーニー』があからさまにし、大半のハリウッド映画がいまだに隠していること。それは、「たいていの場合、金持ちの方が貧乏人より、性格がいい」ということである。まあ、よく考えたら当たり前のことなのだが、いや〜な真実である。

ショーン・コネリーがティッピ・ヘドレンに関心をもつのは、ようするに性欲からなのだが、しかし、当時おおかたのハリウッド映画のヒーローは、性欲などおくびにも出さないものであった。とても1964年発表の作品とも思えない『マーニー』は、精気が充実した、有能で円満な性格をそなえた若い金持ちによって、貧しい女が救われる物語である。

アメリカ時代のヒッチコックは、ヒーローと性欲の関係について、あれこれと思索をめぐらしていたのかもしれない。アンチ・ヒーローと性欲は、わりに容易にむすびつけられるものであって、その集大成が1960年発表の『サイコ』なわけだが(しかしこれだって結局は不能についての物語である)、1959年発表の『北北西に進路をとれ』(ラストがとてつもなく「卑猥な」作品)あたりで、ヒーローと性欲について物語る糸口が見えてきたのではないか。

少女のマーニー(ヘドレン)とその母が犯した殺人の機微がすばらしくよく描けている。素人売春で生計をたてていた母は、売春稼業の露見を極度に恐れていて、もうこの時点でその精神状態は普通ではなかった。客である男にとって買春はなんでもないことだった。「なんでもないことをしにきた」男が、その場にいた泣いている幼児をあやした。それは男にとって「なんでもないこと」だった。もちろんこの男は幼児性愛者などではなかった。しかし、売春婦にとっては、そうはみえないのだ。普通の精神状態ではなかったから。その子から離れてよ! なんだよ叫んで、どうした? 揉みあいになった大人たち、子供はその事情がわからず恐怖しはじめた。売春婦は、自分のしていることを世間に知られたくなかったし、当然子供にも知られたくはなかった。焦燥と恐怖。男に突き飛ばされ、女は足を怪我する。子供は母親と同じ行為で、母を守ろうとした。火かき棒で、男が動かなくなるまで、その頭部を強打しつづけたのだ…。

男が性の恥ずかしさを女の側におしつけていた古い時代に、ごくふつうにありえた悲惨さを、あっけらかんといってもいいくらいに、ヒッチコックは表現している。

ようするに『マーニー』は、社会の安定のために性の真実を隠し通そうとする社会への挑戦なのだ。性差別さえなければ、マーニーは貧しいながらも健やかに成長できたかもしれなかったのだから。(←ここで、またしかし、「金持ちの方が…」の法則に抵触するわけで、真実の人ヒッチコックのいけずなところだ)

エンディングの、通りであそぶ子供たちをながめるコネリーとヘドレンのシーンは意味深である。世界から貧しさがなくなれば、そして、子供のうちから性について教えていれば、この映画のような悲劇はおこらないのだ、というヒッチコックのせつない願いが込められているような気がするのだが、どうだろう。