白洲正子『両性具有の美』

筋骨隆々とした体格にゆたかな乳房をたたえて、その股間には女性器と男性器をともにそなえ…式の両性具有を、著者はそうそうに否定して、身体的に未熟な少年美や稚児について語る。著者が女性だからか、足穂や熊楠的な知識の羅列によって読者を辟易させないところがいい。


折口信夫のホモ話をわりに同情的に触れているのは、やはり著者が女性だからか…。女にとっては他人事だが、男の私にとっては恐ろしい…。


21世紀のいまから衆道についてふりかえるのはなかなか困難なのだが(とはいえここは新宿だから、数百メートルいけばメッカがあるわけで…)、折口の話を聞くと、なんとなくイメージが心の中で結ぶような気はする。男が男として、未熟だけれども見所がある少年を仕込むという性行為…。


著者はべつに語っていないが、読者の私は、男の本質に落ち着きのなさというものがあるのではないかと、ふと思い浮かんでしまった。


落ち着きのなさを糊塗するために持ち出された偽の体系性…。


衆道から稚児の話、天狗と来て、やってないから折口よりも足穂よりも幽玄で美しいといわんばかりの熊楠の話にうつり、熊楠が天狗とあだ名されていたところから、能の「鞍馬天狗」へと話が変わり、両性どころか老いも若さも具有する身体操作術としての能を語って巻を閉じる構成はよくできていると思う。


そういえば、たしかに天狗は天の狗(いぬ)なわけで、天狗という文字からあの鼻の長い赤い面を、ショートカットに想起していた自分が、いまとなっては不思議である。