殉職の受け止め方

私たちも、かつてはいまのタリバンのような野蛮人で、異人切りなどしてそのことを自慢していた。

人助けをしていたら野蛮人に殺された。アフガンの事件はそれだけのことにすぎないのだから、被害者に縁の無い日本人があたふたと何事かを口にしなければならない理由はない。

日本人は1億人もいるのだから、あなたがうじうじ思い悩んでいなくたって、誰かは勝手に率先して海外に行ってしまう。その人が成功しようと、失敗しようと、殉職しようと、あなたには何の関係もない。

日本国政府のサービスが行き届かない地域で活動する人も、それはでてくるだろう。そういう人が殉職しやすい環境で活動することに、あなたが口を挟むいわれなどない。

だいたい日本にすんでいたって、過重労働で過労自殺する人もいるし、低賃金で結婚できない人もいるし、問題は山積みではないか。過労自殺する人と、今度の伊藤氏と、後者の方が徳が高いとでもいうのだろうか。人間は平等なのではなかったか。



と、いうようなことをhttp://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2008/08/post_53f9.html#moreを読んでいて思った。

なお、前の戦争での、特攻とか、無謀な作戦による莫大な数の「無駄死に」と,ここでいう他者のために死を覚悟することとは,全く別のことであるのはいうまでもないことだ。


というあたりにかちんと来たのである。だいたい死ぬことに有意義も無意義もあるのだろうか。私はとくに死後の生を信じないから、臨終にどういう感想を抱くかが、有意義か無意義かの分かれ目だろうが、そのときの判断材料はそれまでの人生からしか得られないはずである(あまり高齢すぎてボケてる場合もあるだろう…)。

有史以前の原始人は劣悪な環境で平均寿命も30歳くらいまでしかなかったわけだが、彼らの人生も無駄だったのだろうか。彼らが自棄になって集団自殺しないでいてくれたおかげで、いまの私たちがあるわけだが…。