読むまでもない、かな

しかし、なぜあらゆる主体の「読み=鑑賞」は盗作を判定する基準としてつねに挫折するのか。http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20080907#1220766533

個体のヒトが、時間も空間もフィクションとしてしか把握できないから、としか思えないのだが…。

時空双方におよぶ千里眼能力を人間が備えていたら、盗作かどうかの判定は容易にできる。「実際の」テキスト作成の情景を「のぞき見て」、「その時」と現在との時間の長さをそれぞれ比べればいいのだから。

というか、そういう発想の短編小説を、私自身が書いたことがあるし→http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20070608/p1

じつは種明かしをしてしまうと、『<盗作>の文学史』のまえがきと黒い雨の箇所を、私はすでに立読みしているのだ。

本を読みながら私が思ったのは、ポストモダン憎しの言辞がむやみに多いなあ、ということ(ペロリンガ星人の偽装をすぐには見破れなくて、写真を眺めながら「星が多いなあ」とつぶやいたモロボシ・ダンのように)。嫌いなら無視すればいいのに、なぜことさらに書き残すのか。

わかりきったことなので詳述はしないけど、それが栗原氏の「主体」なのでしょ、ということ。

知的パズルとしてなら、新聞記事の引用を無造作にずらずらならべて、読者に解釈させれば、そちらの方がより高級という理屈になる(なるでしょ?)。その読者の作業を著者の文章が介助しているのだから、「読みやすいと評判」なのは当然の話。というか、それって「読んでる」ことになってんの?