人間と権利と呉智英

私は、近代的法体系そのものへの異議申し立てを否定しているのではない。それに類する発言を、私自身くりかえしてきた。私が言いたいのは、それを自覚しているかどうかだ。(呉智英『健全なる精神』34ページ)

自分という主体に絶対的な信頼を置く文芸批評的「価値判断」というものが、本質的に不能あるいは無意味であるという前提に立って、あの本は書かれています。「まえがき」にわざわざ「批評はしない」と書いたのはそういう意味ですhttp://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20080907#1220766533


ちょっとにやついてしまう。関係のないふたつの文章をならべて引用してみた。栗原氏によれば呉の価値判断もまた無効なわけだ。そして実際私もそう思うわけだ。引用の呉の文章「坂東眞砂子「子猫殺し」を論ず」をよく読むと、この文章の主張の根拠は「滑稽かつ醜悪な社会」を厭う呉の「私」にあることがわかる。つまりは美意識であり、主観であり、要するに、客観的では、ない…。

さらにじっと読むと、抗議の主たちへは、呉は批難の矛先をむけていない。これは呉が正しい。抗議というのはどんなに数が多くても法にならなければ権力ではないのだから。だから呉は動物愛護管理法を紹介するわけだ。そして…

動物が権利を持ち、それを行使することなど、ありえない。なぜならば、権利とは、人間を社会の主体として人為的に定めた制度だからである。(35ページ)


とあるのに呆然としてしまう。『サルの正義』で「人間が自然状態においては持っていた復讐権」といっていた著者の十数年後の文章である。自然状態の人間とはようするに動物ではないかと私は思うのだが、呉にとっては違うのだろうか。

人間による保護をうけるという消極的な権利としての獣権なら、現行法体系に矛盾なく包摂できると私には思えるのだが(とはいえ事務が煩瑣だろう)、呉にとっては違うのだろうか。動物が権利を行使するのか、などと、おこるはずもない事態を否定する呉の物言いは不審である。